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歴史(中世)の勉強で

朝活で「 ヨーロッパにおける都市の起源」を読む・・
放送大学テクスト:「都市から見るヨーロッパ史」(第2章)

都市から見るヨーロッパ史 (放送大学教材)by河原温)

 1.古代ローマとゲルマンの遺産

kotobank.jp

オッピドゥム:ケルト人の集落 のちの中世城郭都市の先駆的形態
ケルト人=前500年から前1世紀頃 500年以上にわたりヨーロッパ世界に君臨)
ガリア地方(現在のフランス)
前50年カエサルガリア遠征でケルト=ガリアの世界はローマの支配下に。
4世紀後半ゲルマン諸族のローマ帝国内への移住定着

ローマの遺産
1.文字をもたない・・ラテン文字が知の言語
2.ローマ法という法典の受容
3.ローマ人が残した遺産:都市の建造物

ゲルマン人の遺産
1.食事:狩猟、畜産物(肉やチーズ)
2.ブドウ栽培が困難であった北ヨーロッパにおける主要な飲料:ビール醸造  

 2.キリスト教の浸透

kotobank.jp

②ローマの歴史家タキトゥスが紹介した原始ゲルマン人の部族集団 ①帝政ローマ期の自治都市。 独立の政治体で,身分別(自由民・解放民・奴隷)は発生していたが,自由民による民会を意思決定機関とし,選挙によって各氏族の長を選んでいた。

4世紀に帝国全体に広がる: 都市区域ごとに信徒を統率する司教、組織

ローマ時代の都市。司教座が設置される。
司教は,4世紀以後はローマ帝国の行政単位であるキヴィタス(都市区)ごとに置かれた
6世紀ごろから、ローマ・カトリック教会はゲルマン諸部族との結びつきを強めた。
ローマ教会の宣教者はフランク族などの支配層を、三位一体説のアタナシウス派キリスト教に改宗させていった。

しかしゲルマン人たちは、ゲルマンの神々や森の聖霊への信仰を容易に捨てなかった。
教会はゲルマン人の自然崇敬をキリスト教の聖人崇敬に振り替えた。
自然と農耕のリズムに応じたゲルマン・ローマの多神教的時間意識を、キリストの生誕、死、復活のプロセスをおきかえる事によってキリスト教化を試みた。

kotobank.jp

 ラテン語のブルグスburgusに由来するフランス語で,ドイツ語のブルク,英語のバラboroughに対応する。西欧中世の集落史上特異な性格をもつ。  

市場集落(カストルム/ブルグス)

6世紀ベネディクト修道会の成立:ヌルシアのベネディクトゥス(480頃~546頃)

www.karakusamon.com

特徴:定時課=3時間ごとに区切られた祈りの時間と1日6時間の手の労働

多大な寄進により7世紀以降ロワ―ル・ライン川間の北西ヨーロッパを中心に古典荘園と呼ばれる大規模な土地経営を行なう.
土地台帳(所領明細帳)が残る

サン・ジェルマン・デ・プレ修道院(パリ近郊)、サン・レミ修道院(ランス近郊)

修道院自体が防備された定住地(ブルグス)の核になる
例:シント・トルイデン(ベルギー)

トゥールの聖マルタン修道院、ヘントの聖パヴォ修道院
(ローカルな聖人たちの聖遺物を保持)
彼らの祝日が地域の市場の開設日と結びつき
修道院の存在する場へと引きつける・・

3.都市的定住地の形成

中世初期(フランク王国メロヴィング朝481-750、カロリング朝751-987)
かっての説(ベルギーのアンリ・ピレンヌ)
8世紀以降イスラーム勢力の進出が
ヨーロッパ世界から商業活動全般を失わせた」

現在;金貨に代わり銀貨という少額貨幣を基盤にした貨幣政策の採用は、内部の地域的商業活動の進展に対応するために必要になった
この時期にヴィクスないいポルトゥスとよばれる非農業的定住地(商業地)が生まれてきた;商業交易の中継地

市場集落(カストルム/ブルグス)貴族の城塞や修道院などの支配の拠点に隣接
定住地の形成は多様

北フランスのサン・トメールやアラス・・大修道院が核
例:北フランスのアラス
古代以来のキヴィタス(司教座)に隣接して7世紀に創建された聖ヴァースト修道院を中心にブルグスと呼ばれる都市的定住地が発展し、都市の中心がキヴィタスからブルグスに移動

リェージュやマーストリヒト、トゥールネ・・司教座の周辺に

ヘントやブルッヘ、ナミュール、ウィ・・伯の城塞が中心

南フランスでは、司教座を取り囲んでその外側に複数の新たな定住地(ブルグス)が形成され、9世紀から11世紀にかけて、司教座を活性化しつつ発展

ローマ都市との直接の連続性は否定されている

例:南フランスのアルル

ローマ、ヴェローナフィレンツェニーム、アルルなどでは、メロヴイング朝からカロリング朝にかけて都市生活は縮小し、古代の都市的施設(円形競技場や浴場など)も使用されることがなかった
しかし、10世紀以降、これらの都市は、キヴィタスとしての都市空間を維持したままその周辺に新たな都市空間を発展させていく

 

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テキストp44の図

9世紀以降、北方からノルマン人の侵攻を受けて、西ヨーロッパの多くの都市的定住地は、周囲を囲壁により防備

カンブレの聖ジェリー修道院、ランスの聖レミ修道院、パリ近郊の聖ドニ修道院などの修道院や司教座の多で防備がなされた・・・ノルマン人に対する恐怖の心理的誇張も見られる(一方的な破壊に終始したとは考えられない)
ノルマン人の来訪による新たな都市的定住地が生まれた

例:ダブリン(イングランド

ネーデルランドの特にフランドル地方では、ノルマン人の襲撃を受けつつも、10世紀以降ヘント、ブルッヘ、イーブルなどが西欧有数の商工業の中心のとして再生・発展していった。

結語は以下

教会や修道院の所領を中心に形成された荘園制度(古典荘園制)による農業生産の拡大と

聖俗の領主による商品・貨幣流通の促進 を背景に 

イタリア、南フランスに見られるような古代ローマの遺産である司教座(キヴィタス)の実質的存続とその発展
北西ヨーロッパにおけるような聖俗の領主の拠点(修道院や城砦など)を核とし、その周辺地に形成された商工業者の定住地(ブルグス)の発展などが、
地域の政治的、経済的、宗教的な中心地として中世盛期以降の都市空間を形づくることになる。

 

 

 2014年にこのあたりの関連を少々みていたかどうか・・
キリスト教が都市の形成にどのような役割を果たしたかという観点だが、
下のページで引用の通り、

モンテ・カッシーノのイメージ

次の旅、山登りは無理?
と思うので、私が行くとしたら、
やっぱりアルルだろうか?

ランスの聖レミ修道院
トゥールネ、ヘントの聖パヴォ修道院にも食指が動く・・・フランドル伯居城・・怖そう~~等々言いつつここまでで・・

francekenbunroku.blogspot.com

allaboutbelgium.com

久しぶりに覗くtwitter

オリンピック開会4連休終わり・・
月曜日の朝・・久しぶりにtwitterのぞく・・

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はにぃさんもチュールで水分補給中

フランスの地図

 昨年の6月に

新刊の以下の本を読もうと書いた・・
フランスの歴史を知るための50章 (エリア・スタディーズ)
・・・1年たって、ようやく読み始めた。(図書で)

まえがきに追記があり、コロナ禍の話があるのがちょっと新鮮(!?)・・・・

www.akashi.co.jp

nekomegami.hatenablog.com

 とにかく、

第Ⅳ部まであるの中の第Ⅰ部 古代・中世のみ、丁寧にみることにしたい。
第Ⅱ部の近世の、ルーブル美術館の誕生も見ておこう・・ 

説明

  • 古代から現代にいたるまで、現在のフランスを構成する地域の歴史を平易な文章で叙述。政治史を軸に、社会、経済、宗教、文化などの様々なテーマを絡めながら、各時代を多彩な執筆陣が立体的に描き出し、読者を新たなフランスの発見へといざなう。
目次
はじめに

第I部 古代・中世

1 ローマ帝国下のガリア――カエサルの遺産、そして「フランス」のプレリュードへ
2 「フランキア」から「フランス」へ――「フランク人」小史
3 ガリア聖歌――「フランス音楽」の古層
4 封建社会の王――前期カペー朝
5 フランス中世の教会と修道院――11?12世紀の信仰と平安
6 フランスのロマネスク美術――大いなる実験の時代
7 「長い13世紀」とフランス王国――王権の伸長と王領地の拡大
 [コラム1]12?13世紀フランスの女性権力者
8 ゴシック建築とフランス――歴史のなかで変化する「ゴシック」
9 中世のパリ――都市代表組織の形成を中心に
10 カタリ派のコスモロジー――中世南フランスの信仰と異端迫害
11 托鉢修道会の誕生と拡大――都市社会のキリスト教信仰
12 神学vs.哲学――世界の永遠性をめぐる13世紀パリ大学での論争
13 13世紀における都市の勃興と文学――アラスの場合
14 中世フランスの民主主義――都市と村落の自治
 [コラム2]サン・テミリオンのワインとジュラード
15 百年戦争の開始――相次ぐ敗北と三部会の反乱
16 百年戦争の終結とその後のフランス――諸侯と公妃に導かれるフランス
 [コラム3]ジャンヌ・ダルクとそのイメージ

第II部 近世

17 フランスの宗教改革――福音主義運動の展開から改革派教会の創立へ
18 宗教戦争の終結とアンリ4世――内乱を経て王国再建へ
 [コラム4]フランスのルネサンス文化
19 ルイ13世とリシュリュー――国家の利益で結ばれた王と宰相
20 フロンドとマザラン――戦時体制への不満と党派間の争い
21 ルイ14世の親政――「偉大なる世紀」の光と影
22 絶対王政の統治構造――社団、儀礼、公共圏
23 近世のパリ――王権による首都統治体制の形成
24 近世フランスのキリスト教(17~18世紀)――カトリックとカルヴァン派の信仰生
25  「近代家族」の誕生――夫婦と親子をつなぐ情愛の絆
26 啓蒙思想――「敢えて賢くあれ」 
27 ルーブル美術館の誕生――アンシアン・レジームから革命へ 
 

ところで、しっかり読む前に、 この本の

 「現在のフランスを構成する地域」の件、掲載の地域に分かれた地図を、デスクトップにおいて、旅の計画(いつになるかわからないが)をはじめたのであった・・・

ja.wikipedia.org

 
17地域ある中で、次はどこを拠点にしようか・・っという気力が

ようやくわいてきました。
ワクチン接種パスポートということが話題に上り始め‥旅に出る気持ちを持て始めた・・・

www.watch.impress.co.jp

 

アジャクシオ(コルシカ島)

オルレアン(ロワール)オルレアン大聖堂

カイエンヌ (南アフリカ ギアナ)

サン=ドニ (レユニオン) 海外県

ストラスブール - Wikipediaライン川左岸)

ディジョン 

トゥールーズ

ナント(ブルターニュ公爵城ナント大聖堂)

バステール (グアドループ)バス・デール島

パリ 

フォール=ド=フランス(海外県)

ボルドー - Wikipedia(3か所が サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路のモニュメント)

マルセイユ - Wikipedia

リール (フランス) - Wikipedia

  • リール市立美術館 (パリのルーヴル美術館に次ぐ、フランスの第2の美術館)

リヨン - Wikipedia

ルーアン - Wikipedia

レンヌ - Wikipedia

 

ロワール川行ってない・・
昔見た、ここだけは行ってみたい世界の花景色―世界名景紀行」という本にあったフランスの花景色は2つ、

  • ボーヌ郊外/ブルゴーニュ(夏ヒマワリ畑)
  • ヴィランドリー城/庭園自慢のロワールの古城(庭園通年)

・・ロワールのお城も魅力的で、以前みていた・・・

ナントもロワール川河畔の都市(ブルターニュ)

ライン川のストラスブールだとシャルルドゴール空港から10分の、ディズニーランドの最寄り駅で乗り換えて、
TGVで2時間。その先のフランクフルトに向かう途中の都市だから、行くとすると、ドイツのことも考えにいれないといけなくなる・・

 

2年ぶりの計画なので、仏蘭西限定か?
それとも、ギリシアか・・それとも、 アルル+アムステルダムか‥
まだ決めていない・・

そろそろ、大まかに決めて、旅程を練ろうと思いますが・・

nekomegami.hatenablog.com

 

  

nekomegami.hatenablog.com

 

 

nekomegami.hatenablog.com

 

 

 

nekomegami.hatenablog.com

 

 

nekomegami.hatenablog.com

 

nekomegami.hatenablog.com

 

nekomegami.hatenablog.com

 

「ビートルズ de 英文法」

 放送大学の新学期の科目を選んでいて、 「ビートルズ de 英文法(’21)」というのを発見…  

 メンバーサイト(?在学生サイト)で、試し読み後、 試験を受ける(受講する)のはやめても、テキストは買ってちょっと読みたいかな・・と思いました・・

 

放送大学につきあい始めてけっこう時間がたつので、テキストとノート類もたまってきている。
ここらへんで、置き場所の片付けも必要かなと思いつつ・・
今現在は今年度初開講の『都市から見るヨーロッパ史』をやっているのだが、面白い・・

2015年からの『植物から見るヨーロッパの歴史』と同じように、
ある一つのテーマを軸にヨーロッパの歴史を考えるという意図でのもので、
「歴史」というのは領域が大きすぎるので、
このように範囲を区切った方が、その範囲一杯でやる気になるから、よいですね。
但し、今回の試験は受けません。いそがないので、次回試験日の1月までベンキョウ延長で~~

 

おススメですね、この科目…

 

 

 

 

 

 ゆっくりみていたので、新しい科目で・・

「Rで学ぶ確率統計(’21)」 Introduction to Statistics Using R ('21)  秋光 淳生
・・とかにも迷い込みました・・

それ何??
ふ~~ん~~

das-kino.hatenablog.com

 

情報分野では

「情報デザイン(’21)」かな? この二学期から開設のようで、

ユニバーサルデザインとかの退屈な(←失礼)話ではなさそう・・
「ヴィジュアルリテラシー

 

ユニバーサルデザインuniversal designUD)とは、文化言語国籍年齢性別・能力などの違いにかかわらず、出来るだけ多くの人が利用できることを目指した建築(設備)・製品・情報などの設計(デザイン)のことであり、またそれを実現するためのプロセス(過程)である。(ユニバーサルデザイン - WikipediaDesign for Allという概念

 

「ヴィジュアルリテラシー視覚リテラシーとは、画像の形で提示された情報解釈し、交渉し、意味理解する能力であり、一般に書かれたまたは印刷されたテキストの解釈を意味するリテラシーの意味を拡張します視覚リテラシーは、写真を「読む」ことができ、その意味は読むプロセスを通じて行うことができるという考えに基づいています.(Visual literacy - Wikipedia)


ちょっとわかりにくいですね‥

 

情報デザイン(’21) Information Design ('21)

伏見 清香、茂登山 清文

【講義概要】 電子ネットワーク社会では、だれもが簡単に発信者になることができる。その際に、さまざまな情報を収集・選択・編集し、それに形を与えるのだが、その行為をデザインと呼ぼう。設計とも言い換えることのできるこのプロセスは、社会で仕事をする際にも、研究を進めていくのにも不可欠である。この授業は、導入の後、情報デザインの基礎を学び、続いて各論を説く。さらにその展開を講義した後、最終回ではまとめと今後についても考える。
【授業の目標】 情報デザインを多様な視点からとらえ、広範囲にわたるその事例を知ること、そしてデザインについて考え、理解を深めることが、この授業の目標である。受講者が、デザインの良き使用者となり、発信者となることも視野に入れる。

 ふ~~ん・・検討中・・

「執拗低音」

ヨーロッパの歴史の本を見ていて・・遭遇した言葉、

執拗低音」??

歴史的背景を説明し、現代にまで持続する「執拗低音」の存在を示す。 

 

通奏低音」という言葉は知っていたのですが、これは?

ja.wikipedia.org

ある種のリズムパターンの反復
同じピッチで永続的に繰り返されるモチーフまたはフレーズ

 

類似の「通奏低音」という言葉が「(比喩的に)表面にはあらわれないが一貫してその物事に影響を及ぼし続けている要素」(『大辞林 第三版』)の意味とされるのは音楽用語としては誤用と指摘されているが、この誤解は「執拗低音」との混同に基づくらしい。この比喩を広めた丸山眞男自身は「日本思想史におけるバッソ・オスティナート basso ostinato〔以下では執拗低音と訳す〕と自分が呼ぶものを明らかにしたい。」
バッソ・コンティヌオ basso continuo〔通奏低音〕から区別された執拗低音は、低音のくり返すパターンで、主旋律に色彩を与えるが通常は主旋律を構成しないで下部に横たわるモティーである」と述べ、「通奏低音」から「執拗低音」へ用語を変更した(「日本における倫理意識の執拗低音」『丸山眞男集 別集 第三巻』岩波書店、二〇一五年)。中野雄『丸山眞男 音楽の対話』(〈文春新書〉文藝春秋、1999年)も参照せよ。

 

ja.wikipedia.org

 通奏低音(つうそうていおん)とは、主にバロック音楽において行われる伴奏の形態。

 

 結局、同じような形容句であるとしか見えないが、
本題は、二学期~の科目として、ヨーロッパの歴史関連のテキストを見ること。

今までの講義・・・

 

 

 

 

 

 2つ目でした‥(面白い!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旅で見た作品を「岩波美術館」で確認中

旅で見た作品を「岩波美術館」で確認中

テーマ館第2室 ひとのかたち(2003年5月刊)

前川誠郎解説

7.<エヴァ>ギスレベルトゥス(12世紀前半)

1125-1135年頃制作、高さ72㎝、長さ132㎝

オータン、ロラン美術館

エヴァを中心にして左にアダム、そして右にサタンがつながる横長の構図
聖堂の楣石の彫刻
北玄関は1766年に大幅な模様替えが行われ、エヴァは、1856年になってある家屋の取り壊し作業中に廃材として埋まっていのが見つかった

flora.karakusamon.com

 

f:id:nekoatama:20210710064247j:plain20190614 photobyM 

まだ2年前ですが・・・・

 

8.殉教聖者の行列

6世紀中頃、モザイク
ラヴェンナ、サン・タポリナーレ・ヌオヴォ

金地バック、白衣をまとい両手で冠をもった五人の聖人
ほぼ正面向きに並んでいる
しかし足元を見ると彼らが花咲く緑の草地の上を作法へゆ聖人の間にはしゅろの木が置かれている。衣や冠と同じく殉教のしるし。
西の正面玄関を入るとすぐ右側(南)の高壁に、これら五人を先頭とする二十六人の殉教聖人
その向かいに北壁には東方の三博士導かれた二十人の殉教聖女たちの行列
彼らはそれぞれラヴェンナの王宮や市門を出て、壁の東端に描かれた天国のキリストと聖母のもとへ出かける途中

ビザンティン美術の人間像はギリシア・ローマの伝統を汲んで人体各部の自然な組み立てを尊重しながら、キリスト教美術として精神化するとともに、宮廷美術にふさわしい荘重なものとした

鼻梁の長さを鼻梁の長さを半径とする三重の同心円で、光輪に囲まれて聖者の顔を造足している、単調に見える原因の一つ。

flora.karakusamon.com

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20170606 photobyM

 

サン・ピエトロの写真

f:id:nekoatama:20210706165708j:plain

この写真集(図書)に驚きました。
これだから、普通の人の旅(&旅写真)の意味は、まず、「確認の旅」なんだと思う。

この表紙だと、文字が赤いから気がつかないかもしれないが、全部白黒写真。 
以下一葉引用させていただく。

f:id:nekoatama:20210707074318j:plain表紙のこの写真は
(p67-69でさらに見られる)F.ヴェルガーラ《アルカンタラの聖ペトルス》の天使の部分という。

 
ちなみに、私メの2017年~2019年の旅写真ほぼHPに写真放り込み終わり・・
内容を見直している・・
そして、来年はまた行くよ,~~気分~復活しつつある。
(2020年は北イタリア・アルルに行きたかったのだが、)これからどうなるのか・・・
・・・現代の都市ロ―マには二度と行きたくないかもでしたが・・
(観光客が多すぎ、スリや物乞い、不道徳なタクシー運転手や中学生女子とか、嫌いな要素が多い。)

 

  あとで解説までみると、若桑みどりさんも書いているが、
この写真集で、「もの言わぬ石の雄弁さ」が見えるということかな・・
いや、この写真家が捉えた彫像の美しさ・・・

 

http://www.aurelioamendola.it/

Aurelio Amendola - Wikipedia

www.iwanami.co.jp

「信仰の劇場サン・ピエトロ大聖堂若桑みどり

「永遠」と「瞬間」を結ぶ場所
ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロも、キリスト教の精神と古代ローマの文化の総合の上にその芸術を創造した。

いや、西欧文化そのものが、この二つの偉大な文明の総合の中で生み出されたからこそ、世界史的な広がりをもった。

 

語りかける彫刻たち

ローマにとって最悪の事件は1527年にルター派のドイツ兵を交えた皇帝軍がヴァティカンとサン・ピエトロを襲撃し、略奪を恣にしたことである。
16世紀半ば以後、サン・ピエトロの造営は、対抗宗教改革の教会の威信をかけた事業になった。

もし、この聖堂がラファエロミケランジェロが意図したようなギリシア十字の古典的平面図の上に立ち上がっていたならば、現在、われわれが体験する空間とは全く違ったものがここにあっただろう。
光り輝く司教座も、ねじれ柱のある揺れるようなダイナミックな天蓋も、四隅のニッチで大声で叫び、身をよじって風を起こす巨大な聖人たちも。今あるものはみな、世界布教時代の、宗教改革時代の、熱烈でダイナミックな教会の意思を表現している。
宗教はもはや、静かな瞑想や教示によって伝えられ遵守されるものではなくなり、感覚の陶酔と圧倒的な感動によって喚起され動員されるべきものとなった。
ただひとろしずかに端然と座っているのは、大クーポラの手前右手の、もっとも尊ばれている本尊聖ペテロのブロンズの座像である。
この写真集はおそらく初めて、この物言わぬ石の像たちに雄弁に語らせることができた画期的作品である。

バロック芸術の生きた現場
かってこの大聖堂を訪れて、何も聞くことがなく、何も見る事がなく通り過ぎた人々も、これから後は、世界に声を届かせるために叫ぶ大布教時代の聖人の声を聞き、その身ぶりを見ることができるであろう。

続く、ブルーノ・コンタルディ解説はこの大聖堂の設計の歴史などが書かれていた・・

「汝はペテロ、教会の礎なり」
シモンから「石(ペテロ)」に名を改めた最初の教皇
紀元64年聖パウロとともに殉教 

 

訳者(若桑みどり)追加の参考文献に挙げられていたのものは、
別の写真集だが、

  

 こちらも図書にあったので、また借りて、見てみようと思う。
また、訳者(若桑みどり)の訳書も挙げられていた。
パノフスキーの 『墓の彫刻 死に立ち向かった精神の様態』
(こちらは図書になし)欲しいですね。しかし、例に漏れずお高い(-_-;)

 

 

 日本の研究家・・

 石鍋真澄 - Wikipedia

 

長尾重武 - Wikipedia

 

以下は、サン・ピエトロについてもう一度見ようと思って借りた本・・

f:id:nekoatama:20210707061513j:plainp205

こちらでは、地下のネクロポリスを見なければ、この大聖堂はわからないとあった・・
「サン・ピエトロ聖堂は大きさ、つまり広がりとして横にイメージするのではなく、ペテロの墓からミケランジェロのドームへと縦にイメージしなければならない。
歴史の連続性を空間としてイメージしなければならない。」(p170)
それと

f:id:nekoatama:20210707062027j:plain

「16世紀には到達していない」私であったから、結局、何も見ていないと思う・・
メインはヴァティカン美術館であった。そちらも、見た、とは言い難いかも。
今は、本とヴァ―チャルで補うほかありません・・

 

wikipedia

サン・ピエトロ大聖堂を含むイタリアを訪れた観光客がかかる「スタンダール症候群」という病気を、1979年にフィレンツェ精神科医師ガジエッラ・マゲリーニが指摘した。これは、膨大な芸術作品群をできる限り多く見て回ろうとする強迫観念が、観光を楽しむ余裕を奪い、頭痛などの症状を発するものである。1975年にガラッシ・パルッツィが著した本によると、大聖堂の美術品はラヴェルティーノ像165体、ストゥッコ像125体、大理石彫像が110体、ブロンズ像40体があると記されており、そのひとつひとつが大作揃いである。祭壇画はほとんどがモザイクの複製画に取り換えられているが、これも膨大な数になる。聖堂内にある歴代教皇の墓は147基あり、多くは地下礼拝堂にあるが堂内でもたくさんの墓碑を見ることができる


挙げられていた図像から 

●ポルティコのベルニーニの晩年の作「コンスタンティヌス帝の騎馬像」

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《コンスタンティヌス帝騎馬像》の詳細画像|MUSEY

 

●身廊Naveの「美徳の寓意像」(大アーチの上。すべて6メートルほどの巨像)

「大アーチの上にはストゥッコによる美徳の寓意像が置かれている」(1599開始1649完成)とあるのだが(p179)その像は下のwikipedia画像だと思うが、他の像もあるのかわからない・・
Barat-Pere
  St. Sophie Barat, at St. Peter's Basilica in Vatican. 1934
いや、あとで気がついたが、上のこれは美徳像ではなかった‥
いま一度アウレリオ・アメンドラ写真集に戻って、図版一覧を見たら、
解決・・
この、ニッチの像でなく、うえのアーチのその上に乗っている(横たわっている)像の方が美徳像なのでした・・
また、以下のようにすべて作られたようです・・(数はあっているが、くくりは違う)


※関連https://bymn.xsrv.jp/nekomegami/2018ne/prudentia.html

ルネサンス期(15世紀前後)の、英知(賢明)・勇気(剛毅)・節制・正義の四つの徳の擬人像(女神)+三つの神学徳の信仰、希望、愛 (charity)で.計7つの擬人像 

 ・・・・・・・・ ・・

《潔白》G.B.モレッリ 身廊、右、第三アーチ
《平和》G.B.モレッリ 身廊、右、第三アーチ
《悔悛》L.オットー二 後陣、右アーチ 

《正義》C.マリア―二 身廊、左、第四アーチ

《剛毅》C.マリア―二 身廊、左、第四アーチ
《慈愛》A.ブオンヴィチーノ 身廊、右、第四アーチ
貞潔》N.メンギーニ  身廊、左、第二アーチ
・・・・・・・・・・
・・下は美徳とは違う?
《神の正義》A.ボルジ 身廊、左、第一アーチ

 

00120 Vatican City - panoramio (56)

 wikipediaのこの画像、
右が、N.メンギーニ の《貞潔》 (身廊、左、第二アーチ)
左は、《神の正義》A.ボルジ (身廊、左、第一アーチ)

 


□アルノルフォ・ディ・カンビオ(?)「聖ペテロ像」 

commons.wikimedia.org

 下の本にはネクロポリスの写真がありました。
壁龕はホタテガイの装飾・・

ポンペイレッドみたいな色・・いやこれが、枢機卿の「緋色」でしたか?‥

  

f:id:nekoatama:20210707074314j:plainp43の写真の一部を引用

 

Category:Vatican Necropolis - Wikimedia Commons

 

ホルバインの絵の美女?

Degas’ Copy after Holbein’s Anne of Cleves (c.1860)

www.meisterdrucke.com


ドガの絵。
下の16世紀のホルバインの絵の19世紀の「コピー」というが、

なぜコピーを?

英国美人ということで?私にはよくわからないままだ。いまのところ・・

 

Hans Holbein the Younger (1497/1498–1543)AnneCleves

AnneCleves

 アン・オブ・クレーヴズ(ハンス・ホルバイン画、ルーヴル美術館蔵)

 

この絵を見て、赤いクロスが、なるほど、この時代を表わすものなんだ…と思いつつ
イギリス国教会

www.pinterest.jp

 

www.pinterest.jp

 

アン・オブ・クレーヴズ - Wikipedia

アン・オブ・クレーヴズAnne of Cleves1515  - 1557 )は、イングランドヘンリー8世の4番目の王妃(1540年結婚、同年離婚)。

英国繁栄の礎を築いた強運王 ヘンリー8世 - Onlineジャーニー

同盟相手を得るための政治的結婚。
ヘンリーは肖像画を見て結婚を決めるが、実際は気に入らず、半年後に離婚した。

 

omochi-art.com

 

クロムウェルは、結婚の失敗の責任を取らされて処刑
ホルバインはというと、宮廷画家の身分を剥奪され、追放処分を受けます。

ふ~ん??

WLA vanda Miniature of Anne of Cleves
Portrait of Anne of Cleves, 4th Queen of Henry VIII

 

 

このあたりを検索していて、2つおまけで・・

アーミンと紋章と・・

Armoiries Bretagne - Arms of Brittany

 

Beaufort Portcullis Badge of the Tudors

BannerInTheSky

Our Banner In The Sky (1861) both oil and lithograph by Frederick Edwin Church – a colorful sunset interpreted to reflect divine support for the Union during the American Civil War
風景画家というが、
この絵は驚きです・・・・
 

ギリシアの旅(準備篇)

旅された方の参考になるサイトをみていました。

◆ 「忘れへんうちに 旅編」(ギリシア)

そのブログのほしがらすさんの参考サイトは・・・ 

◆「ファインダー越しに見たギリシャ旅行

 

このブログの
2021-03-08 (BLOG)「 コリントスに行ってみたい」
2021-05-06 (BLOG)(バーチャル旅)ギリシア デルフォイ
2021-05-11 (BLOG)旅計画 ギリシア美術を見るには、ギリシアでなく、ドイツで、それもミュンヘンですね!?

旅の準備ページ作り再開です・・

flora.karakusamon.com

 

多くの人のバケットリストに、ギリシアに行くことは書かれているらしい!?

 

ツアーを見ていたのだけれど、やっぱり私にはそういう旅、無理かも・・


いや、現地からのミニツアーだったらOKか??

www.tour.ne.jp

 

エーゲ海クルーズというのも無理かも((笑))

www.club-t.com

 

jpn.scissorspaperpen.org

 

Arte greca, figurina cicladica, 2500 a.c. 01

手帳カバーフェチの用途整理

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手帳の用途整理

手帳の革のカバーというやつのフェチであるが、使用期間が長くなってくると、
高価なカバーといえとも、整理が必要のようだ、

右はイタリアのものだが、今年度の大学テキスト用
左がほぼ日で買った新人であったが、今頃になってようやく、現在の研究テーマチェックのためにつかう、っと、用途を決めた・・

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右は、いつものA5サイズの机上の日誌
左も、A5スリムサイズで、いろいろなテーマの進捗チェック月報・・私の定番万能選手

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右は家計簿になった、ほぼ日ウィークス(持ち歩かず)
左も体調管理(体重・睡眠・歩行数・通院の記録)用だけとなった。見通しの良いジブン手帳(持ち歩かず これは革ではなくてピンクの紙の入ったビニール製だが、色が気にいている。明るい気持。)

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右が持ち歩きほぼ日手帳(持ち歩きといっても住居内、マンション構内に限る)
左はほぼ日5年手帳(週1くらいでまとめて記録。定位置は書棚机。)


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こちら、二つとも、旅のためのシステム手帳だが、
右は過去の旅の地図やガイドブックの切り抜き帳(中身を整理して身軽にする予定)
左は旅の経費や持ち物、これからも使える情報用。

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こちら、右はファイロファックスのクリップブックで、手帳のための手帳(笑)
これもビニール製だが、身震いするほど好きな色だった・・

左は、雑誌の付録であるが、月一書いて、年報にして、一緒に保存する予定だ‥。

f:id:nekoatama:20210628104106j:plain右は文献購入控え、閉じ手帳。(領収証など)

左は趣味のドラマ鑑賞のためのシステム手帳。

おまけです・・

以下は日報の保存用(紙製)
(何年分も保存するのはヤメヨウ)

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下は、とても古~~~~いかって愛用したシステム手帳カバー・・バイブルサイズ(byダ・ヴィンチ レイメイ藤井
いまは、右は銀行用、左はゲーム用(^-^;
ゲーム用は、その用途だけの月別カレンダーを入れて、ゲーム課金なども記録。

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まだある、古いシステム手帳カバーですが、
こちらは、バイブルサイズの二つ・・ byフランクリン・プランナー

f:id:nekoatama:20210628104536j:plain右はクレデンシャル情報用

左は一筆箋などの保存分用(ラウンドジップ)

 

システム手帳は好きですが、今はバイブル・サイズでなく
家おきは、それより大きいクラッシックサイズ(A5)に落ち着き、
常時持ち歩きは、システム手帳最小サイズの、マイクロ5穴となっています。

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これを買う前は、下の超古いランセルのシステム手帳、買い物メモとしていたが、

これは左のサコッシュに入らなかったので、

家族(娘)に買い物メモを書いてもらう用途として固定電話のあたりに置いている。

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「名著ざっくり完読」「愛でたい読書」

2018年の8月号で、約2年前ですが・・

 

 古典を読むには、ガイド本が役に立つ・・・

わからなくても気にしないこと、だそう。
(「古典に外れなし!心の赴くままに読めばいい」by出口治明さん

ガイド本として、岩波書店の「 書物誕生 あたらしい古典入門」というシリーズがおすすめされていた・・
中ではまずこれよもうかな・・っと。(近くの図書館にはこのシリーズ一冊もなし(-_-;))

 

「精神の城塞」ですか‥うん、そういう感じだ・

 

老子、じゃない、荘子篇の「鶏となって時を告げよ」というタイトルには驚いた(笑)

2018年2019年はボランティア(サイトのリニューアル)が忙しく、お勧めされても放置でした・・
今年の「芸術新潮」2月号の特集の「愛でたい読書」と一緒に当分座右において、チェックするつもりです。

 

  

 

※今「ヨーロッパの歴史」(都市からみるヨ―ロッパ史)の勉強をしているのだが、すすんでません・・

 

 

 

 

 

行けない仏蘭西(ヴァンタドール城)とサンザシ

何だか知らないが、オンライン予約図書で、こういう本を借りてしまった。

 

 そういうわけで、返却前に一応見ておくことにする。

原題 THE MAYS OF VENTADORN 
(2002)
原著者 W.S.MERWIN 
(「ピュ―リツァー賞などを受賞した、現代を代表する詩人」)
訳者 北沢格(いたる) 2004年4月早川書房

扉の惹句

詩を志す若き日のマーウィンは、偉大な先達エズラ・パウンドの導きで、南フランスの片田舎に向かう。その地にはかって、恋の喜びと苦悩、悲しみをうたうトルバドゥールと呼ばれる詩人たちの歌がこだましていたのだ・・・
彼らの中でも、類まれな恋愛詩で歴史に名を遺す、ベルナルト・デ・ヴェンタドルンの生涯を、恋の季節の到来を告げる花 サンザシの香りに包まれながらたどる私的紀行

( MAYSは、五月花(メイフラワー)サンザシのこと)
著者マーウィンは、ベルナルト・デ・ヴェンタドルンは、
12世紀初頭の詩人、後継者はダンテ・・・と書いていた。
フランスの凄い辺鄙な場所を訪ねる旅のようだ‥(実際は旅というより何年か住んでいた)



目次読書だが、

第1章では ヴァンタドール城の廃墟を訪ねた話

季節は春で、「白い星のようなハコベととブラックベリーの花と、黄色のハリイエニシダトホオベニエニシダの花が最初に頭に浮かんでくる」・・

出てくる詩人はエズラ・パウンドで、面会した時、「もし詩人になるつもりなら、毎日75行ほど書くべきだ。だが、君の年齢では、君はまだ描くべき対象を一つも持っていない。持っているつもりかもしれないが、それは違う。だから翻訳をやるべきなのだ。」と「裁判官のように」いわれた話・・

第2章には、ドルドーニュ川 ケルシーの夏

子どもの頃の話、長老派の聖職者のよそよそしい父、夏の夜の牧草地、・・
大叔母の遺産で、26歳でフランスの片田舎トルバドゥールゆかりの地の家(ケルシーの無人の元農場)を買って、数年間暮らした話

ja.wikipedia.org

出てくる詩人はヘルダーリンFriedrich Hölderlin (1770-1843):ネッカー河畔の町ラウフェンに生まれ、1806年以降ヘルダーリン塔ドイツ語版」で過ごした詩人。


 第3章は最初の妻と村で暮らした話

過去への興味、連続性の糸を手繰ることに夢中になった・・ほとんどの子供は大人いなると出ていった 絶望的に遅れた村

 

第4章では12年後の夏にケルシーの村を再婚した妻と訪ねた

・・この地域のことをもう一度見直す・・オック語、ダンテがトルバドゥールたちから受け継いだ遺産・・煉獄編第26歌・・

 

第5章 ムスティエ=ヴァンタドゥールを訪ねその歴史を語る

「ムスティエとは、大聖堂か修道院の意味を持つ古語」(p102)「ムスティエとは、大聖堂か修道院の意味を持つ古語」(p102)
「石がただ横たわっているだけの現在の瞬間が、あたかも昔からの不変の状態のように思えて、ついにはこれらの石が永遠を体現するようになるだから、わたしたちの眼には、ミロのヴィ―ナスには最初から腕がなかったように映るのであり、廃墟もまたこの城の真実の姿であったように見えるのである」(p115)


城の廃墟があるのは、フランス中南部のポワティエとトゥルーズの間ですね・・
ムスティエ=ヴァンタドゥール (Moustier-Ventadour)は、フランスヌーヴェル=アキテーヌ地域圏

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第6章 ベルナルト・デ・ヴェンタドルンの伝記の話

1世紀ほど前の 研究家 カール・アベル
ベルナルト・デ・ヴェンタドルンについての短い『伝記』(ウック・デ・サン・シルク著?)は、最初期のロマンスの中で一定の位置を占め、ロマンスという言葉の成立に貢献した
下のwikipediaでも、ベルナルトの伝説(物語)が書かれている

ja.wikipedia.org

 ベルナルトの伝説(物語)というのは、

 ヴェンタドルンはヴァンタドゥール城のパン職人の息子だったが、保護者のヴェンタドルン子爵エブル3世から歌唱法と読み書きを学んだらしい。奥方マルグリートと恋に落ちたためにヴァンタドゥール城を去ることを余儀なくされた・・

 

ベルナルト・デ・ヴェンタドルンBernart de Ventadornまたはベルナール・ド・ヴァンタドゥール Bernard de Ventadour, 生年:1130年ごろ - 1140年ごろ ~ 没年:1190年ごろ - 1200年ごろ)は中世プロヴァンスを代表するトルバドゥール

 

  ◇ジョングルール・ボン・ミュジシャン公式ブログ:放浪楽師と吟遊詩人(2)

 

第7章 ベルナルト・デ・ヴェンタドルンの詩の話

パルバドゥールの詩の様式の二つの系統のうち、「平明体」(他が「密閉体」)を代表する詩人
恩師のエブルとその主君、ギエム(ギョーム九世)の詩の話

わたしたちのこの愛の成行きは
まるでサンザシの枝のよう
夜の間は雨と霜とで
木の上で震え続けながらも

太陽が昇れがあさのひかりが
緑の葉や枝に広がってゆく。(byギエム)

 

・・ダンテの永遠のヴェアトリ―チェ像で頂点を極める様式化された理想の姿
その伝統を始めた(p153)
トルバドゥールの恋愛詩の先駆け

イギリスでは五月花(メイフラワー)、と呼ばれるサンザシが姿を見せている。
この花は、パルバドゥールの詩の伝統では、恋の季節と、その季節がまた訪れて、もう一度その華を見たいという希望を象徴する花
詩においても季節においても、バラが出てくるのはもっと後のことだ(p154)

プルーストがサンザシの花とそれが象徴する感情について論じている。
”再び見つけるために失う”

面白い。
そんな話はサンザシ - Wikipediaにありませんね~~
セイヨウサンザシの方では、

メイフラワー - Wikipedia

Crataegus

ロバート・グレイブスは、彼の著書「白い女神で、メイツリーとも呼ばれるホワイトソーン(サンザシ)が中心である多くのヨーロッパの伝説や神話をたどり、再解釈しています。

Crataegus-oxyacantha-flowers 

ミッドランドサンザシ、Crataegus laevigata (syn. C. oxyacantha): flowers

 

第8章ベルナルトの歌で繰り返される苦しみとは、距離という問題


「あこがれ(ロンギング)」という言葉の意味自体が距離感と深く関わる
「遠い愛」はトルバドゥールの伝統に不可欠なものになった
ギエムの詩と11世紀初頭イスラム・スペインの哲学者・詩人イブン・ハズムとのつながりの
イブン・ハズムの恋愛論『鳩の首飾り』(アラブ詩人たちの教科書)
一度かそこらしかあったことのない恋人を強迫観念のように生涯愛し続けるというモティーフは一つの様式

ダンテのベアトリーチェやペロルカのラウエ、このあたりまで来ると、距離というものが死は神々しい変容にまで拡大されてゆく。
女性の理想化と性愛の昇華「(p170)

アベル(ベルナルトの詩を編纂し校訂した)は二つのことが確実であると結論

1 .ベルナルトはヴァンタドルンで生まれ育った
2. ベルナルトは多年にわたって、イングランド王ヘンリーの王の妻となるアリエノール・ダキテーヌと何らかの親密な関係にあっ

魅力的な仮説

アベルの研究から半世紀たった、1966年にベルナルトの詩集を編纂したモシュ・ラザール(フランス人)
「ベルナルトの生涯について、われわれは全く何もわかっていないことを謙虚に認めるべきである」

 

第9章 ベルナルト・デ・ヴェンタドルンの詩語

ダンテは、アルナウト・ダニエルこそパルバドゥール最高の詩人であると考えていた。(p179) ・・密閉体を駆使した技量

ダンテは愛という主題の中に、多様な形の経験と広範な人間の行動と歴史を、少なくとも論理的には加えることができた。(p180)

愛が私に霊感を与えたとき、それを書き付け、
心に命じられたままに伝える者、
それがわたしだ。(byアルナウト・ダニエル)

 

うたっても、わたしには無益のように思える、
その歌が心から出てきたものでない限り、
そして、真実の愛がそこにない限り、
歌が心から出てくることはない。(byベルナルト・デ・ヴェンタドルン)

 

歌いたい者には歌わせよう。
わたしには、あそこでのやり方がもうわからない
わたしの幸福の源が失われてしまったのだから。 

この世の喜びのすべてはわたしたちのものとなる、
わがひとよ、わたしたちが互いに愛し合うならば。
ああ、毎日、
わたしの本当の喜びを
ベッドの上や、窓から見ない限り
わたしにとって生命などなんいなろう。


「ベルナルトの詩の大半は、おそらくベルナルトが生きていたころから有名だったろう・・
ベルナルトの抒情詩の代表作としてよく紹介されるものは、彼が最後に書いた詩だっだのかもしれない(p185)

 

太陽の光を受けてヒバリが
喜んで羽ばたくうちに
われを忘れて
甘美な心のまま堕ちてゆくのを見るとき
ああ、喜びに浸るものへの

嫉妬の気持ちがこれほどわき起こるとは
わたしの心がその欲望で溶けぬとは
何と不思議なことか。

ああ 愛についてはよく知っていると、
思っていたのに、これほど知らなかったとは!
愛しても何にもならぬあの人を愛さずにはいられないのだから。
あのひとは自分自身を取り上げ、わたしの心を取り上げ、
わたし自身とこの世のすべてを取り上げて、
去ってゆき、残しものは欲望と
なおも焦がれるわたしの心のみ。

 

1209年、アルビジョワ十字軍という戦闘と略奪を旨とするごろつきたちにより、ヴェンタドルンにおけるトルバドゥールたちの偉大な日々は終わり、ドルヴァドゥ―ルの伝統と宮廷恋愛の掟は、二度と昔日の姿を取り戻すことはなかった(p192)

 

第10章 秋のヴァンタドゥ―ル

20世紀の聖職者レオン・ビイェの城とその相続者の研究

トルバドゥールたちの歌の始まりとなった城壁が、沈黙を守ったままそびえている

 

エピローグ
1895年に、レヴィ・ミルポワ公侯がこの城を買った。
1863年以来、この城に関するプロジェクトがゆっくりと勧められている・・

 

解説 Rea the seeds(長田弘

 

 

E・ル・ロワ・ラデュリ『ラングドックの歴史』(和田愛子訳「、文庫クセジュ)という小さな本、

 先史時代から「そして、滅んでいった」という時代の終わりの言葉を繰り返す、南フランスのラングドックと呼ばれる地方の歴史を綴った本
歴史というのは土地の物語に他ならないと、それもどこか血の臭いのする土地の物語にほかならないことを、あらためて想起させずにはいない。

マーウィンという詩人の本は、そのラングドックという土地の歴史に残されてきた、
まさに「ひとつの文学語」がつくりだした「文化共同体」の記憶をめぐる本だった

 エズラ・パウンドの手紙の一行
[小枝ではなく、種を読むこと (read the seeds,not  the twigs of poetry)]

目に見えるものでなく、目に見えない詩の種
ひとりの詩人が目撃した the seeds,としての「歴史」の風景

マーウィンの詩「場所(Place)」(長田弘引用 この世界での生き方の姿勢をまっすぐに刻んだ一篇))

この世界の終りの日に

わたしは一本の樹を植えたい

何のためにか

果実のためではない


実をむすぶ樹は
植えられた樹ではない

わたしが植えたいのは
この地球に初めてそだつ樹だ

 

沈んでゆく
太陽を浴びて

根は
水に潤されて

死者たちでいっぱいな地球にそだつ樹だ
すると雲が移ってゆく

 

ゆっくりと
葉の繁るその樹の真上を

 

 

 

W. S. Merwin - Wikipedia

www.poetryfoundation.org

マーウィンは2019年3月に91歳で亡くなりました。

楽しみな本

 昨年10月刊のちくま新書であるが、
まずは目次読書をしようと思って広げたところ・・

石とぶどうだ‥

 ちなみに、前著については・・以下に。
[ゴシックとは何か]ww.karakusamon.com
その方は、講談社2000年刊⇒ちくま学芸文庫2006刊で
私の目次読書2014-06-22(一読は 2008/6/3 で、その6年後のまとめ)・・
同じく6月の読書であったが、7年たちますね‥

 

こちらのご著書の
「序」章は、フランス中部オーヴェルニュ地方のサン・ネクテール教会堂に始まる・・
柱頭装飾に、「キリスト教の意味付けと動植物への信仰がつなげられている」とある(p013)

 

Chapiteau „L'Âne à la lyre et l'Homme chevauchant un bouc“, l'église de Saint-Nectaire (Puy-de-Dôme) - 1837
サン・ネクテール教会堂:

2019年の6月に見たヴェズレー大聖堂等の柱頭を思い出した。
仏蘭西浪漫(FRANCE・ローマン)

 第1章には、コンスタンツァ廟のはなしあり。ここで、
「コンスタンツァの肖像画(モザイク)がバックス信仰で神聖視されるぶどうの木とその果実、そしてワイン囲まれて描かれている」(p048)・・というのは事実だが、

これについて、「こうしてキリスト教と異教の図像を隣接させることで両者をつなげようと目論まれている」という。
また、「この装飾のベースにあるのは、古代ローマのバックス信仰である」というのは、ともかく、
「しかし本来のギリシアディオニュソス信仰は、こうした平和で牧歌的な光景とは無縁だった。」ということ、

ディオニュソス神話の確立までの、地理と要素の追加の話が、そういう視点か当方には不足していたと・・改めて思ったので、以下に抜き書きしたい。 

ディオニュソスは動物と植物の生命を司る男性の大神とされ、この神の名のもとに生の豊饒が、狂気と生の放縦の中で祝われていた。(この信仰は、文明の外部とされた、トラキア地方の山奥で生まれたらしい)
輪廻転生を説くオルフェウス教(こちらもトラキア地方が発祥の地)、中でも粉々に砕かれた後に再生するザグレウス神への信仰の影響を受けて、ディオニュソス信仰にも再生復活の要素が加えらていった。
自然界の生命の豊饒、狂気、受難と復活。
これがディオニュソス信仰の基本となり、紀元前6-5世紀にギリシア世界に入ってからは様々に神話化され、また壺絵などに図像化されていった。ぶどう栽培とワイン製造の神という面に関しては、ギリシア世界に入る途次でつく加わったらしい。

すなわち、トラキア地方で誕生した後、ディオニュソ信仰は南下して、エーゲ海東岸の小アジア(現在のトルコ当たり)のフリギアに伝播し、ブドウ栽培とワインを讃える農耕信仰の側面を併せ持つようになった。とりわけイカリア島においてはそうだった。

だが、やがて、エーゲ海を渡って、西進し、ギリシア世界の中心域、アッティカ地方に伝わり、紀元前6世紀ごろにアテネをはじめ都市の祭りに組み込まれるようになると、野性的な面を徐々にそぎ落とされていった。(p050)

「 サンタ・コンスタンツアl霊廟を彩るブドウとワインの装飾の背景には、ざっとこのような歴史がった」「また、この装飾にはまたディオニュソス信仰に由来する復活の願いも込めめられている」

サンタ・コンスタンツァ廟は、私にも大きな関心のあったところで、→(2017年5月27日に尋ねた:アヴェンチーノAventino 20170527)

 

ちなみに、この聖堂を含む、2017年の旅のまとめは以下だが、追記していきたい。

fl死産会の生命の豊饒、狂気、受難と復活。


このところ、2018年・2019年の旅仏蘭西浪漫(FRANCE・ローマン)の方もまとめてきて、ちょっとで終わるので、ようやく本を読める!?のであった・・・

 (以下途中、続く)

 

追記
第2章の、サン・ピエトロ大聖堂の話・・にある

 

ねじれ柱・・ぶどうの木とのつながり

・・ふ~~ん、あれは、単なる意匠でなく、ぶどうの木を模していたと・・
よく見ていない・・それ、

ソロモンの柱で片づけていたが・・Solomonic Column
コンスタンティヌス大帝がペトロの墓を飾るためにギリシアから運ばせた6本の「ぶどうの木の柱(columnae vitineae)」で、

塊から一本丸ごと作られた高さ4.75mの柱
大切に台座に載せられている。
「この殉教者記念堂は 350年頃完成、改築が進められ、8世紀になると、さらに6本のねじれ柱が東ローマ帝国から寄贈された。」

ねじれ柱の列柱の眺めが、ローマのサン・ピエトロ聖堂への巡礼者の目を奪うことになる。ねじれ柱の列柱は西欧の各地で様々な形状になって反復されていく。
ローマ的でありつつ、そうでない。
ねじれ柱はこうしてロマネスクの曖昧さを示す典型的な表現物になっていく。(p061)

Speculum Romanae Magnificentiae- Grotesque Winding Column in St. Peter's MET DP870256

Speculum Romanae Magnificentiae: Grotesque Winding Column in St. Peter's

 


J・B・ワード・パーキンズ(イギリスの古代建築史家 1912-1981)「聖ペトロの霊廟と12本のねじれ柱」(1952年)にある、5世紀の象牙小箱の図像とそれを模した5世紀の聖ペトロの天蓋復元図

 

ソロモン神殿伝説(これらの12本の柱はもともとソロモン王がエルサレムに建てたユダヤ教の神殿に立っていたとし、その前でイエスが説教を行ない、奇跡を起こしたとする)特にこの時イエスが寄りかかっていら一本が「聖なる柱(Columna Santa) 」と呼ばれた。
16世紀からの大改築で、堂内中央の壁龕などに分散されてしまった

 


17世紀にはバロックの天才ベルニーニ(1598-1680)によって聖堂の中央に新たに天蓋と巨大なねじれ柱が設置される。
サン・ピエトロ大聖堂の聖ヘレナ礼拝所上部の壁龕の柱。

※Helena, mother of Constantine I

 

Altare della Basilica di San Pietro, città del Vaticano (Roma) - panoramio (1)

Baldachin of Saint Peter's Basilica (1)

004-015聖ヘレナの上部壁龕 | Bernini@Roma

 

バルダッキーノのねじれ柱は、旧サン・ピエトロ大聖堂のパーゴラに使われていた初期キリスト教時代の円柱を再現したもので、巨大な大聖堂の中心部に視線を集中させる効果を持つ。またベルニーニは、聖堂中心の4つの柱に、4つの聖遺物(ロンギヌスの槍の穂、聖女ヘレナの聖十字架の断片、聖ヴェロニカの布、聖アンデレの頭部)を安置する祭壇を設け、その下に縁の人物像を配した 。(wikipedia

 

amazing-trip.xyz

 (良い案内で、もう一度行きたくなりますが、「天蓋」の字が間違っています。)

 

https://flora.karakusamon.com/2017f/20170531/r-DSC01098.jpg
2017年5月31日撮影
(ベルニーニの天蓋と柱)内陣の青銅製大天蓋Baldachin of Saint Peter's Basilica(パルダッキーノ)

 

 

 ねじれ柱の例として、
フランスブルゴーニュ地方、アヴァロンのサン・ラザール聖堂の正面扉口な
南フランスのエクス=アン=プロヴァンス、サン=ソヴゥ―ル大聖堂付属回廊(12市期末)

 Avallon 010

 

 この写真集が図書にあった。 図説世界建築史というのは見当たらないが・

 

 

 

 

 

  



 ゲーテは立って書いていた・・

  ゲーテは立って書いていたが、
在宅ワークで 、よい椅子より、スタンディングデスクを買ったという方の記事を読んだ。
・・・すわりすぎ警報(が出る前に立っているわけね・・

(ガーミン腕時計が警報を出すのだが、頻繁なので、無視)

 それはそうと、来年行けるかな?
2020年2021年と、6月の旅 は、ナシなのだが、少し先が見えてきて、来年は復活できそうな気がします‥

(まだコロナワクチンの接種は受けていないが)

ciao66.exblog.jp

 

先日リンデンバウムのことを書いたが,

 

nekomegami.hatenablog.com

 

ウンター・デン・リンデンがあるのは、ドイツです、ベルリンです・・

ウンター・デン・リンデン (Unter den Linden) はドイツベルリン大通りの一つである。ウンター・デン・リンデンとは「菩提樹の下」の意味で、その名の通り菩提樹並木道を満喫することができる。(wikipedia

 

 

Unter den Linden von oben cropped

しかし・・・ウンターリンデン美術館はフランスにある!

 

jp.france.fr

「ウンターリンデン美術館」リニューアル・オープン

 

アルザス地方、コルマール市にあるウンターリンデン美術館は、グリューネヴァルト(Grünewald)ことマティス・ゴートハルト・ニートハルト(Mathis Gothart Nithart / 1475~1480-1528)作《イーゼンハイムの祭壇画》で有名です。この作品を見るために世界中から美術愛好家が訪れ、フランスの地方美術館の中でも年間入館者数最多を誇る美術館の一つに数えられています。3年間の改装増築工事後、2015年12月にリニューアル・オープン

 

 

 

 話し戻して、

 

昇降デスク

 

 

 

 

 良い椅子

 

 

 お高いですね

私の下のだが、古くなりました・・

 

 

 

 

 

 

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