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ロレンスの『黙示録論』

新訳聖書の最後の「ヨハネの黙示録」は、(福音書記のヨハネではなく、)パドモスのヨハネが西暦96年に書き終えたものという。(諸説紛々というが)
黙示録は「第二流の精神の所産」ともD.H.ロレンスはいう。 (
『黙示録論』p045)
ヨハネ文書(wikipedia)

 

ロレンスの黙示録論(1930年45歳、死去の2カ月前の作)

面白い。

 

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

黙示録論 (ちくま学芸文庫)

 

 

特にこういう箇所。

イエスが己の弟子のうちにイスカリオテのユダをもたねばならぬ宿命にあったように、
新訳聖書のうちに黙示録一篇の紛れ込むこともまた不可避の運命であった。
なぜか?それは人間の本性がそれを要求しているからだ。(『黙示録論』p047) 

 

ユダには同情していた私である・・(笑)

 

黙示録とは、人間のうちにある不滅の権力意思とその聖化、その決定的勝利の黙示にほかならない。(『黙示録論』p047)

イエスのクリスト教精神は吾々の本性のわずかに一部を満足させるのみである。吾々のうちにはなおそれが適合せぬ広範な領域があるのだ。この領域こそ、黙示録が当てはまるのである。

アポカリプスは、クリスト教の隠れた裏面史というべきであろう。アポカリプスは権力に対して敬意を払おうとしない。それは権力者を虐殺し、権力そのものを己が掌中に収めんと冀(こいねが)っている、それがこの虚弱者の本音なのだ。(p052)

諦念と瞑想と自己認識の宗教はただ個人のためのものである。しかしながら、人は己れの本性のほんの一部においてのみ個人たりうる。他の大きな領域においては、人は集団である。(p050)

純粋なクリスト教精神なるものは、国家、あるいは一般に社会というようなものとは絶対に相容れぬ存在である。(p059)

Tapisserie de l'apocalypse
view of the Tapestry of the Apocalypse in Angers, France

Apocalypse Tapestr(wikimedia)

凄い数、威容・・

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まだ途中だが、

アンジェ城に行きたくなった
https://jp.france.fr/ja/news/list/le-chateau-d%27angers-grande-forteresse-aux-17-tours-bicolores-jp

コロナ禍で行けないけど(^-^;

地図を見ていた・・