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ウンベルト・エーコの「歴史が後ずさりするとき」

ウンベルト・エーコの『歴史が後ずさりするとき』
(2001‐2005の講演記録などのエッセイ集)

抜群に面白いですね。

まず、まえがきが面白い。次にざっと見た目次も面白い。

飛ばし読みで、

「神を信じなくなった人間は何でも信じる」も面白い。

「狼と羊―乱用の修辞学」にもほれぼれ・・・・と、ざっと見たところを、

そうそう、これを読もうと思ったのは、
ウクライナのことから、
戦争についての考察を知りたかったからだと、第一章はじめに戻る・・(2002講演)

戦争の論理

・湾岸戦争(1991年1月17日から3月3日)は、交戦している人間が敵を哀れんだ最初の戦争だった(p19)

・犠牲を伴ってはならず、最大限の幸福の原理を維持しようと努める戦争

・多国籍資本主義が持つ性格のために、敵が誰であるのか不明、正面からの衝突でない。

・長続き不可能
→戦争の原理の新たな展開

・911(2001年)以後アフガン戦争まで・・

・今回も二つの「祖国」を対峙させるのではなく無数の権力を競わせることになったが、逆に戦争を長引かせる危険性があった(p29)

・アメリカとイスラムテロリズムの対峙=領土的対決でない、敵は身を隠している。
・情報拡散によって、敵が自分の背後に置かれるようになった。
・グローバル化時代にグローバルな戦争は不可能、だれもが勝者になれない。(p43)

→永久に続くネオ戦争という形態、その周辺に再開しては一時敵な終結を繰り返し続ける数々の旧来型戦争が散在する状態(p42)
・「平和」とは曖昧で特定しにくい概念である。

「争いは世界のルールであり、戦争は万物共有の生みの親であり支配者である」byヘラクレイトス(p44)

・パックス・ロマーナ(ローマの平和)、パックス・オットマーナ)(オスマン・トルコの平和)、パックス・チネーゼ(中国の平和)、全ての平和は、征服と絶え間ない軍事的抑圧の結果だった。(p45)

周辺にいる人々は、システムの均衡を保つために欠かせない旧来型戦争を耐えなければならない。平和があるとしたらその平和はつねに我々の平和であり、他人の平和ではないという事だ。

・平和的なグローバル化の利益がシステム周辺に住む人々の不利益によって支払われている。

・第三段階のネオ戦争。均衡状態の終わり。日常的な不安と終わりなきテロの領域と化した中心部に永続的な不均衡を約束。

→ローカルな平和

平和計画を第三段階のネオ戦争に対して建てるのは不可能。
数々の旧来型戦争が果てしなく広がる周辺において、平和的領域を「まだら模様」の平和としてつくりだために働くこと。
われわれのたった一つの望みは、ローカルな平和のために尽力すること。(p49結語)

補足

・ネオ=ギリシア語 new  

「ネオ」と「ニュー」の違いとは?分かりやすく解釈 | 違い比較辞典

「ネオ」は復活したものという意味から、昔のものが新しくなったことを示す意味として使われます。

 

・2013年1月刊のこの書の文庫化は2021年5月

追記

「乱用の修辞学」の方の出だしからもうちょっと。

好意捕捉(captatio benevolentiae)」ならぬ
「悪意捕捉(captatio malevolentiae )」の出だし。

Captatio benevolentiae - Wikipedia

スピーチやアピールの冒頭で聴衆の善意を捉えることを目的とした修辞技法です。それはローマの雄弁家によって実践され、キケロはそれを雄弁の柱の 1 つと考えていました。

たとえば、ローマの歴史家リウィウス(ティトゥス・リヴィウス) は、ローマの人々とローマの歴史の重要性に対する彼自身の取るに足らないことの説明からプロローグを始めます。彼自身の謙虚さを説き、特に自分自身をローマの人々 (彼の聴衆) のはるかに重要な人物と比較することによって、彼は自分の仕事の開始時に彼らの好意を得ることを望んでいます.

 

 

「これから述べようとすることが、本当に述べる価値があるかどうかは分からない。なぜなら、私は今、脳味噌が水に溶けてしまったど阿呆の連中に向かって話していることをはっきり理解しており、どうせ何も理解するわけがないと確信しているからだ。
こんな出だしはいかがだろう。(p73)」
「これから述べようとすることが、本当に述べる価値があるかどうかは分からない。なぜなら、私は今、脳味噌が水に溶けてしまったど阿呆の連中に向かって話していることをはっきり理解しているからだ。しかし、今日はここにきている愚か者の大多数には属していない、二、三の方に敬意を表してお話しすることにします。
こんな出だしなら、「好意捕捉」の一例であると言える。なぜなら、すぐさま聴衆の誰もンが、自分はその二、三人の一人だと思うようになり、他の人間を軽蔑しながら、情愛のこもった共犯者五英気をもって私の話についてくるかもしれないからだ。」(p74)

 

 

ファエドルスの狼と羊の寓話・・乱用の疑似修辞学の典型的な例(p80)

乱用する人間はまず第一に自分の行動を正当化しようとすること。
その正当化が打ち砕かれると、問答無用の武力という論理で修辞学に対応するという事。
説得力の弱い議論しかできない狼は、疑似修辞学の乱用者の強力なイメージが表わされている。

通念(エンドクサ)を出発点として、こっそり、証明の必要なことを確かな前提であるかのように立てたり、「論点先取(petitio prindipii)」の技法を使う詐術を用いている。

 

Library of Congress Aesop Fables

en.wikipedia.org

Gaius Julius Phaedrus ( Phaîdros ) は、1 世紀の ローマのファビュリストであり、 イソップ寓話をラテン語にまとめた最初の検証

ja.wikipedia.

議論の前提が結論を支持するのではなく、結論の真実を仮定するときに発生する 非公式の誤謬

 

最後にウンベルト・エーコの「歴史が後ずさりするとき 熱い戦争とメディア」初めに戻る(訳者まえがきの抜き書き)
・歴史そのものより、政治的論争を取り上げている。
・さまざまな逆説(パラドックス)を使って、今の時代の逆戻りの傾向について論じた
・19世紀観念論の全面的否定へと至ったのは、「何が何でも歴史には方向があるわけではない」ということだ
・歴史に方向があると考えるのは、神とキリストを信じることが絶対的に不可欠となる
「歴史に方向がある」ということは、教父神学の発明、スタートは原罪があって、救世主が現れ、最終的には最後の審判へと進んでいく。その前にはハルマゲドンが起こる

・ヘーゲルの「歴史の進歩」という概念もある。つまり現実的なものは全て理性的である」
ある哲学者が出てきて新しいことを語ると、そのたびに、それより前の哲学者たちは間違っていた、という錯覚を深く受けてしまう

・レオパルディがたった一行の詩句「人類の/≪大いなる進歩≫で、アイロニーをもって言うべきことをすべて語っている
・古代人が「歴史は人生の教師」といったのは偶然ではない。
・歴史は「発展」の方向に進むとは限らない 

・新しいことは全て「進歩」なのだと固定観念的に考えないで、必ず批判的精神、文化的・釈迦的批判精神を行使しなければならない

ja.wikipedia.org

断想集 (ルリユール叢書)

ジャコモ・レオパルディの名言「そして、世界は泥である」額付き書道色紙/受注後直筆(千言堂)Y0042