興味シンシン

興味津津または深深なnekoatama’s blog

オランダ式庭園

庭園というと イングリッシュガーデンとフランス式整形庭園しか浮かばなかったが

オランダ式庭園Dutch Garden

kotobank.jp

卓越した園芸技術にイタリア・ルネサンス庭園の影響が加わり,方形で平坦な小区画を生垣で囲んだ中に1本の樹木や華美な装飾花壇,もしくは噴水などを配する幾何学的なデザインを典型とする。 大庭園の場合にも全体を一つに統合する方向よりは,こうした単位を並置するのが一般的であった。 17世紀に独自の様式として完成し,18世紀にはフランス式庭園の水路などを伴う形式が伝わるが,彫刻的,建築的なデザインよりは,植物学上の見識をふまえた並木や花壇の扱いに特色がみられた。 イギリスの庭園の展開に大きな影響を与えたほか,南半球や東洋から新種を導入するなどヨーロッパ式園芸学を全世界に普及する役を果した

 

フランス式庭園French garden

 

17世紀のフランスで発達した幾何学的な庭園,およびその影響を受け 18世紀にかけてヨーロッパ諸国に築造された同形式の庭園をさす。ブルボン朝の絶対王政下,政治,文化の最高潮の時代に A.ル・ノートルによって大成された。彼はボー・ル・ビコント庭園,ベルサイユ宮庭園において様式を確立。 ル・ノートルの登場以前にも,長い並木道や刺繍花壇といったフランス独自の庭園の要素はみられたが,彼はフランスの比較的平坦な地形を最大限に生かすよう,比例均衡美を駆使した雄大な園景を造り出した。幅広い園路には,しばしば水路を加えて中央に無限に延びるかに見える見通し線をつくり,その両側を対称に造り上げながら,建物近くでは花壇や水花壇,噴水彫刻などを用いたきめ細かい装飾園とし,遠ざかるにつれボスケや水面をマッシブに扱った意匠を展開して変化をつける 。明解な設計理念,地形に即した自由度の高い構成が人気を博し,ベルサイユ宮庭園を模した王侯宮園が全ヨーロッパ中に出現したが,18世紀後半からは風景式庭園の隆盛によって改造されるものも多かった。 

 

風景式庭園landscape garden

18世紀のイギリスで発展した庭園の形式。自然式庭園とも呼ばれる。
17世紀フランスに代表される整形庭園の幾何学的な構成に対する反動として生まれ,非対称や曲線を積極的に用い,理想の風景をつくり出そうとした。またたく間にヨーロッパ中に広まり,多くの既存の庭園が改造された。文学や絵画から強い影響を受けている点が特徴的であり,初期にはジョーゼフ・アディソンやアレグザンダー・ポープなどの論説に影響を受け,また田園の中に廃虚の点在するクロード・ロランやニコラ・プーサンの描く風景も,風景式庭園の世界を先取りするものであった。
ジョージ・ロンドンとヘンリー・ワイズはこの傾向の始祖というべき存在で,チャールズ・ブリッジマンはテンプル家の庭園(→ストウの庭園)でさらに自然に向かっての歩を進めた。さらにルイシャムの庭園をつくったウィリアム・ケントは自然を忠実に写す方向へ進み,ランスロット・ブラウンは極端な単純化を行なってパルテールや彫像などを一切排除しようとし,水の扱いに卓越した技量を示した。
初期には古代風の建物や人工の廃虚が点景として用いられたが,ゴシック復興の機運やオリエンタリズムの進展などに伴い,ゴシック様式の小建物や東洋風のパゴダ,イスラム風の建物などのフォリーが設けられた。なかでも中国庭園が紹介されると,中国風に仮山を築き,中に洞を設けてそりの強い屋根の亭を載せたものも好んでつくられた。後期の造園家ハンフリー・レプトンは,排除されていた建物周辺の花壇などを復活,館の周辺は実用的な色彩を深め,過剰なフォリーを庭園から排除,新境地を開いた。こうした方向とウィリアム・チェンバーズのようにさまざまなフォリーのおもしろ味を追うものの間に激しい論争もあったが,19世紀のロマンチシズムに向けての傾斜が強まっていく。この時代にはアマチュアの造園活動も盛んで,3代カーライル伯によるヨーク近郊のハワード館や,ホーア家のヘンリー2世の造営になるステアトン近郊のスタウアヘッドなどがつくられた。最も熱心に受け入れたのはフランスで,ベルサイユ宮庭園内のプチ・トリアノンのアモーや,ジラルダン侯の営んだエルムノンビィルの庭などが代表的である。

 

 

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6月24日 シャンティイ城庭園のパンフレット

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 「王妃の村里(Le Hameau)」

長い18世紀

長い18世紀 - Wikipedia

長い18世紀イギリスの多くの歴史家が用いる時代区分の用語である。その意義は、単純に世紀ごとに時代を区切るよりも「自然な」時代区分を示すことができる点にある。

 

長い18世紀が指す範囲は歴史家によって異なる。以下ではその例を示す。

前者はイギリスの政治史の流れを重視した区分であり、後者は社会史的・世界史的観点を重視したものである ]

 

なお、この用語はエリック・ホブズボームが提唱した時代概念である「長い19世紀」、「短い20世紀」から影響を受けている。

 

エリック・ホブズボーム - Wikipedia

Eric John Ernest Hobsbawm19172012

ホブズボームはフランス革命が始まった1789年から第一次世界大戦が始まる1914年までを「長い19世紀」と規定

 

第一次世界大戦の始まり(1914年)からソビエト連邦の解体(1991年)を「短い20世紀」と規定

 

リピーター的パリの過ごし方

jp.france.fr

あまりスケジュールを詰め込み過ぎないで、ゆったりした気持ちで、時間を贅沢に使う旅行をされるといいと思います。パリを拠点にして、ちょっと郊外に行ってみるのもいいかもしれませんね。一つのテーマを決めて時間のやりくりをして、フランスの旅を満喫してみてください。

 そうなんですよね

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また行きたくなっていますが

来年は南フランスのトゥルーズとオランダまで

国鉄で今はヴァーチャルトリップですが、

假屋崎さんの頁を見て、ロワール

 

道徳の第三要素

エミール・デュルケーム - WikipediaÉmile Durkheim1858  - 1917 

 

社会学を「道徳科学」と位置づけ、諸個人の統合を促す社会的要因としての道徳(規範)の役割を解明することであると考えた。

人間の行動や思考は、個人を超越した集団や社会のしきたり、慣習などによって支配される個人の意識を源としながら、それとはまったく独立した社会の意識が諸個人を束縛し続けているのだ

 道徳の第三要素:道徳を理解する知性
 規律の精神、社会集団への愛着、道徳を理解する知性(道徳という規範の合理的理解)

 

内観法

実験心理学の父ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt、18321920

1879年 実験心理学の研究室を運用 新しい学問分野として心理学が成立 " 
目的:
哲学の一分野とみなされていた心理学の内省的で抽象的な性格を是正し、ようなり科学的、実証的な心理学を確立すること

人の意識は単純な要素の集まりからなるもので、主観的観察すなわち内観法(自己観察)によって分析できるものと考えた
ヴントの心理学は要素主義と呼ばれる

 

さまざまな感覚(心的要素の働き)が統覚によって統合されるとした。

 

発達と学習 | 日本大学 文理学部 シラバス

学習の諸理論(1)-連合説-。ヴントの古典的条件づけとスキナーの道具的条件づけ、行動主義の考え方など

 

 

ヴントの考えた人類発達の精神史

1)原始時代

2)トーテム時代(トーテム=共通祖先)

3) 英雄時代

4)「人類」時代

 

 

「植物学とオランダ」

大場秀章さんの「植物学とオランダ」読了

以下再読しながら

抜き書き

 

 

植物学とオランダ

植物学とオランダ

  • 作者:大場 秀章
  • 発売日: 2007/07/01
  • メディア: 単行本
 

  

「心地よい緊張と知的興奮に包まれては過ぎた喜びの多い日々の見聞」@ライデン・・・という感じ。
オランダへのオマージュ・・

 

 

リンネ(スェーデン人)の時代オランダは植物学の先進国であったが、、

リンネがオランダで1週間で学位を取ったという話は驚いた
そのころ存在したヘルダーラント大学の論文博士の制度で1735年に
27歳で24ページからなる学位論文を提出したと言うが、
その話はWikipediaにはありませんね。

カール・フォン・リンネ - Wikipedia (Carl von Linné 1707-1778)

 

「植物学リンネの研究を支援したクリフォート邸での生活はまるで王子のようだった」というのは笑えた。

リンネは学名の出発点となる『植物の種』(1753)を除く植物学における重要な著作のほどんとすべてをオランダ滞在中に出版したという、
「短期間にこれだけの著作をものにしたことに驚くが、この出版にかかる経費の大半がクリフォートの援助によったものだった」(p52)
このリンネの研究を支援したクリフォート邸の建物を文化遺産として保存すべきとあることはともかく、「博物学ではスウェーデンもオランダから濃い影響を受けたのである」

 アジサイの発見史だが

 アジサイの存在を最初に知った植物学者はリンネの高弟であるスウェーデンのツュンベリ(ツンベルク)だがアジサイをカンボクと同じスイカズラ科ガマズミ属に分類してしまった。

カール・ツンベルク - Wikipedia(Carl Peter Thunberg 1743- 1828)

 

これをアジサイ属の種Hydrangea hortensisとして再定義したのは、1792年、ロンドン・リンネ協会 (Linnean Society of London)の設立者のジェームス・スミス卿で、アジサイが着目される契機となった

 

 

ジェームズ・エドワード・スミス - Wikipedia(Sir James Edward Smith、1759 – 1828

 

シーボルトのHydrangea otakusaオタクサアジサイ(仮)の発表(『フローラ・ヤポニカ』1839)より40年近くも前に少なくともイギリスではアジサイに似た植物はかなり普及していた のである。

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現在の見方は、アジサイは日本原産でそれが中国大陸に渡って栽培されその一部がイギリスやモーリシャスにもたらされたとするもの(p75)

 アジサイ - Wikipedia

アジサイ(紫陽花、学名 Hydrangea macrophylla
原種は日本に自生するガクアジサイ H. macrophylla f. normalis  

 

オランダと日本のアジサイの違いは、一般化はできないが、
青い色の装飾花を持つアジサイが見られないこと(青色の発色が抑えられる土質に関係がある)(p80)
花期が長い(梅雨のころの一時の花でない)。

 

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 シーボルトの方だが

「気候馴化植物園」をライデン郊外に設け、研究の傍ら企業家としても活躍した、「産学連携のパイオニアであった」(p67)
ライデンの郊外で日本から持ち帰った植物をヨーロッパの庭園で育つように、栽培し馴化させた。一時ライデンが日本の植物や文化ののヨーロッパにおける発信基地となった。


来日は
1823-29

1860-62

シーボルトは自尊心と功名心が目立つ人であった(p97)

 

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト - Wikipedia

 

カロルス・クルシウス - Wikipedia(Carolus Clusius、1526 - 1609)、フランス生まれのフランドルの医師、植物学のパイオニア

 

ヨーロッパ最初の公営植物園のひとつであるライデン大学植物園(Hortus Academicus)の設立に尽力し、詳細な植栽の記録を残した。 園芸の世界でクルシウスが記憶されるのは学問的な面のほかに、チューリップの品種改良や栽培によってヨーロッパにチューリップ・バブルをもたらす切っ掛けをつくったこともある

 

ライデンは 大量の日本植物の導入によって、ヨーロッパの庭園や園芸に変革をもたらした、園芸市場忘れられない町
その他にライデン大学に招聘されたクルシウスは当代同大最高の「本草学者」であった(ウィーンのハプスブルク家の宮廷の侍医であった) 

医学・薬学・植物学の三位一体化した学問「本草学」

 

 

クルシウスとシーボルトの遺産ともいうべきチューリップ、ハイドランジア、そしてユリはオランダが誇る園芸界のスター。

歴史を踏まえての産業発展である(p92)

 

オランダの種の多様性は日本に比べたらはるかに低い。

 

 

Hoorn, North Holland

ホールン - Wikipedia

17世紀の大航海時代にはオランダ東インド会社(V.O.C)の支社があり重要な港湾

絢爛豪華なオランダ東インド会社(V.O.C)の支社の建物は今

ウエスト・フリース博物館 となっているという(p149)

 

Westrfies Museum/西フリージアン博物館 

Westfries Museum, Hoorn – Welcome to the Golden Age

 

Hoorn Statencollege

 

Flag of the Dutch East India Company

 ※vocアムステルダム本社のロゴマーク

 Wikipediaによれば今も深川製陶が使っているとかいう!?

(確認できなかった有田焼 窯元 深川製磁のサイト)

有田焼 - Wikipedia

佐賀県の有田焼

輸出品の中には、オランダ東インド会社の略号VOCをそのままデザイン化したもの、17世紀末ヨーロッパで普及・流行が始まったコーヒーチョコレートのためのセット物までもあった

 

 

フリースラントの印象

現在のオランダ王家でもあるナッサウ=オラニエ家(Nassau-Oranje)は

もとはといえば、フリースラントに本拠を持つナッサウ=ディーツ家に通じるものだという自負(祖先)

 

高校生活を終え、植物学に専心することも考えていたころ、出版された『世界名著』シリーズの

解らないながらも惹かれたホイジンガの『中世の秋』(p225)

 

 

中世の秋 (上巻) (中公文庫)

中世の秋 (上巻) (中公文庫)

 
中世の秋 (下巻) (中公文庫)

中世の秋 (下巻) (中公文庫)

 

 

 

中世の秋 (1958年)

 

 

カール大帝ーシャルルマニュは世界史上の人気者

フランク王国 在位768‐814

 

ヨーロッパの歴史を理解するうえで欠かせないのが貴族の爵位 

フランク王国の行政区分 「伯」管区

侯爵とはプリンス、すなわち宮家(貴族として最高位)

 

『中世の秋』の主人公フィリップ善良公(在位1419‐1467)

 

 

フィリップ3世 (ブルゴーニュ公) - Wikipedia

フランス > ブルゴーニュ地方 > ディジョン

 

最盛期が華やかであればあるだけ、儚さは倍加しよう。

痛ましき国家を代表するのがブルゴーニュ公国であり、ハプスブルク家のオーストラリア帝国だと私は思っている。このはかなき国家は破れてなおいつくしまれている国家でもある。多くの文化遺産や美風を残したのも、これらのはかなき国家だ(p235)

植物学を発展させたオランダの富と栄光・・・生誕300年を迎えた「植物学の父」リンネのオランダ 留学事情や支援者たちとの交流をたどり、クリフォート邸やシーボルトの足跡を訪ねて時の栄華をしのび、

散策路で出会う植物に人とのかかわりを想う。
植物学者がとらえたオランダの歴史と素顔、その魅力・・・・

 

2007年7月刊でした。

 

ほかに

 こちら必読っぽいが図書にない(-_-;)

植物学と植物画

 

 一応このあたりで、このテーマのまとめを「でっちあげる」ことにします・・・・

 

 

オランダ黄金時代絵画

絵画からオランダを見るとすると

「ブリューゲルとネーデルラント絵画の変革者たち」

幸福 輝/著 東京美術 2017年04月刊

 ・・はどうかな?

 

ブリューゲルとネーデルラント絵画の変革者たち (ToBi selection)

ブリューゲルとネーデルラント絵画の変革者たち (ToBi selection)

 

 

その前におさらい

オランダ黄金時代の絵画 - Wikipedia

オランダ独立戦争による、君主制やカトリック的伝統の破壊、オランダ芸術はこれらの大きな変革の結果、素晴らしい成果となって結実した

オランダの黄金時代の絵画を最もよく特徴づけるのは、それまでになかったジャンルの絵画が制作されたこと

このようなジャンルの専門化は1620年代後半に始まっており、1672年のフランスのオランダ侵略までが、オランダ黄金時代絵画の最盛期となった。

 

オランダが世界的な影響力を持っていた、ネーデルラント諸州の独立戦争である八十年戦争(1568年から1648年)の終わりから17世紀(オランダ黄金時代)を中心として、オランダ人画家たち、あるいはオランダで活躍した外国人画家たちによって描かれた絵画

 

宗教を扱った絵画が少ない

 

絵画においても、歴史画を最上位に、静物画を最下位に位置づける「ジャンルのヒエラルキー (en:Hierarchy of genres)」 は広く受け入れられており、多くの画家が歴史画を制作している。

しかしながら歴史画は、たとえレンブラントの作品であったとしても売却が困難で、ほとんどの画家は「ヒエラルキー」としては下位ではあるものの、売却が容易な肖像画や風俗画を描くことを強いられた。

 

現在では当時の最高の画家だとされているフェルメール、フランス・ハルス、晩年のレンブラントたちも、当時はそれほど高名ではない、あるいは流行に外れた画家として経済的問題を抱えており、貧困のうちに死去している。

 

レンブラント、フェルメール、ハルス、ステーン、ヤーコプ・ファン・ロイスダールら、当時を代表する重要な画家と現在では考えられている画家たちがイタリアへは行っていないことは注目に値する

絵画のジャンル

17世紀のオランダでは肖像画が隆盛した

風景画とともに、風俗画の発展と広範な人気は当時のオランダ絵画の最大の特徴となっている

ネーデルラント連邦共和国の繁栄はその多くを諸国との海洋貿易に負っており、都市には川や運河が交錯する水運都市でもあった。このような背景のもとで海洋画は非常に多く描かれるようになり、発展を遂げる。

 

初期の静物画に描かれたモチーフは平凡でありふれたものだったが、17世紀半ばから高価で異国風なモチーフが「派手に」描かれるようになっていき、それとともに静物画の人気も上がっていった。

 

次世代の評価

オランダ黄金時代の絵画は「巨匠・偉大な画家 (オールド・マスター)」の作品の大部分を占めているが、これは単に17世紀のオランダで大量の絵画が制作されたことによるものではない。「オールド・マスター」という言葉自体が、オランダ黄金時代の芸術家を意味する用語として18世紀につくられたものである。

 

オックスフォード美術事典では、静物画の成立は、宗教改革の危機の後、この分野が絵画の存続に貢献したとある。つまり、宗教機関の芸術保護が中断され、画家は収集家や画商から主な収入を得ることになった、ということも挙げられていた。
それぞれの町では異なった特定のモティーフが好まれ、ライデンでは書物や髑髏が好まれたという。

 

この本の続きは
美術の方でに書きました

nekoatama.hateblo.jp

フェルメールの額縁

オランダの歴史の本を読んでいるのだが・・

フェルメールはオランダ人には

レンブラントやゴッホほどの人気はないらしい?????

 

(この件後で引用します)

 

話は額縁です

ルーブルで見たフェルメールの絵の額縁は、

アムステルダムのフェルメールの他の絵の額縁と同じ体裁!?

 

(この件後で追記します)

 

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いや、似ているが違うかも

 

現物を見るというのは、

額縁やキャンパスのしわを見ること。。であるかな

 

 追記!!

『チューリップ・フィーバー 肖像画に秘めた愛』公式サイト:http://tulip-movie.com/
「フェルメール展」公式サイト:http://www.vermeer.jp/

theriver.jp

古代希臘の3つの主義

アリストテレスの現実主義

プラトンの「イデア」に代表される理想主義
ソクラテスの「助産」の思想に見られるに人間主義

 

中世・・キリスト教修道院中心・・理想主義

近世・・教育学の祖 コメニウス・・現状肯定的な現実主義・・デュルケムが到達点

近代・・ルソー・・自然主義的人間主義⇒ペスタロッチ、フレーベル、シュタイナー、「モンテッソーリ

現代・・人間主義の曖昧さと過度の楽観主義への反動・・再び現実主義

最近・・現実主義のい行き過ぎた面の反省、現実主義と人間主義の議論

 

教育思想 (上)

教育思想 (上)

 

 

驚いた!ルーブルのビョンセ

www.newyorker.com

 

子どももルーブル貸し切り!?

front-row.jp

 ここで
私とモナリザの話をしましょう

なんか「お会いするのが恥ずかしい」気がして

ルーブル通い中でも
すぐにはいかなかったのです

毎回、居場所をふんふんと確認しつつ

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行ったのはあと!

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我々が彼女を見る場合は

群がる人々の頭越しスマホ越しになります~~(20180621)

 

植物の静物画 人と植物とのかかわり

以下は月末に迫る

「植物から見るヨーロッパの歴史」のための試験勉強である(;'∀')

(放送大学 草光俊雄・菅靖子先生)

「植物から見るヨーロッパの歴史」を読む

 

第4章の

植物画:オランダと植物画の再読(抜き書き)

 

ポッジョ・ア・カイアーノ

 

フィレンツェ西部の郊外

15世紀末にロレンゾ・メディチが購入したヴィラ
「静物画博物館」(2007年から静物画のコレクションを展示している)

メディチ家の蒐集の多様性を示す

フランドルのヤン・ブリューゲル(父)が描いた花の静物画等もあるが、
大半はイタリア人のこのジャンルのスペシャリストのもの
 例

  バルトロメド・ビンビ
  フェリーチェ・ボッセリ
静物画イタリア語で natura morta
日本語の静物画は 英語の still life の訳でオランダのstillevenからきている


 フランス語 mature morte イタリア語 natura morta

ロマンス語はオランダ語から派生した表現とはかなり異なった印象

morte、morta 静止しているでなく 死んでいる

mature 、natura  描写の写実性の高さをしめすもの

 

オランダ語のstillevenという用語が用いられ始めるのは17世紀の半ば
植物学の成立とほぼ同じ時期に静物画が誕生したという事実

 

静物画が自立したジャンルとして成立したのは、ネーデルラントであったという見方は一般的
15世紀初め ヤン・ファン・エイクの登場

17世紀までには、画家たちはそれぞれの主題に特化、専門化されていた
ヨーロッパにおける美術史上最初の静物画は、必ずしもネーデルラントの画家の手になるものではない

メディチ家のヴィラと庭園 イタリア旅行情報サイト(JITRA)

イタリア人

ヤーコポ・デ・バルバリ「鉄手袋と弩(いしゆみ)と矢のある死んだ山鶉」

  

※Wikipediaでは 鶉(うずら)でなく、雉(きじ)になっていますね

Jacopo de' Barbari 001

(Jacopo de' Barbari、1460/70- 1516)

【騙し絵】の様に見事な描写力

カラヴァッジョの「果物籠」は独立した静物画のジャンルとしてイタリア最初のものと考えられている

 

www.musey.net

 

 

チューリップ 植物・象徴オランダ花卉画

 

 

花の静物画が最初に描かれたのもネーデルラントではなかったらしい。
しかし花の静物画といえば、ネーデルラントの画家たちの作品がすぐ浮かぶ
なかでもアントワープのやン・ブリューゲルは、「花のブリューゲル」と呼ばれるほどの人気のあるがかであった
ルーベンスの描く対策花の静物画を担当した(画家の専門分化が進んでいた)

 

16世紀のネーデルラント:ヨーロッパにおける園芸・博物学の中心となったのがこの世紀

特にネーデルラントの南部 ベルギーを含む、フランダース地方、ブルージュやアントワープを中心にした地域は、「ヨーロッパの庭園」と考えられていた

「植物学の父たち」とよばっれた植物学者が活躍していた

マティアス・デ・ロベル
レンベルト・ドドエンス
カロルス・クルシウス

 

背景:15世紀後半にハプスブルク家の支配下になった

ハプスブルク化の君主は当時、

ルネサンス的な自然研究や古事物研究を探求する

人文主義的な態度を受け入れ、熱心なコレクションを行なっていた

人材の確保に積極的→広範囲にわたる博物学や古事物研究のネットワークが成立

 

中世のネーデルラントの港はハンザ同盟との関りで繁栄

16世紀にハンザ同盟が衰退すると、スペインの庇護もありさらにその地位を上げた
海外から珍しい品々がネーデルラントの港に運ばれてくることになった

エクゾチカ(exotica)=異国風の産物

 

16世紀後半~ネーデルラントの対スペイン独立戦争(八十年戦争)

1648年ネーデルラント連邦共和国独立(ウェストファーリア条約)

1602年設立東インド会社 アジアにおけるヘゲモニーとポルトガルから奪う

インド・中国からの奢侈品で国富を増大させていく

 

ネーデルラントが静物画を大成させたが、静物画の中でも植物画がおおいに称賛され

蒐集されたことはネーデルラントの商業的成功の結果であった

植物画の中でチューリップを描いた絵画は人気であった

いつかは枯れてしまう植物を絵の中にとどめておきたいという所有者の欲望と珍しい花の絵を自宅に飾りたいという裕福な顧客の欲望とが相まって、17世紀のネーデルラントで花の植物画が隆盛になった

 

16~17世紀 エンブレム(emblem)という寓意画が多く描かれた

あることを象徴する画像でそれを風刺したりする手法

 

植物画のテーマの一つそして美術史家によって指摘されるのが

ヴァニタス(vanitas)

これは虚栄とか、虚飾、空虚といった意味の言葉であるが、

人生の愚かや儚さを示す寓意である

儚さ→メメント・モーリ(memento mori)死を思い起こさせるものとしての静物画

よく知られたエンブレムは、

「愚か者と彼のお金はすぐに別れ別れになる」という格言をチューリップの花の図像につけている

 

 

tabicoffret.com

 

 

 

business.nikkeibp.co.jp

 

 

 

 

マウリッツハイス美術館 - Wikipedia

 

4travel.jp

 

shokubutsuseikatsu.jp

 

 


植物と人間との関係で、オランダが果たした役割について

私にとって意外なことだったのだが、シーボルト(1796- 1866)はオランダ人ではなく、ドイツ人であった。 6月にヨーロッパを旅すると、アジサイは普通にみられる。シーボルトというと、このヨーロッパの園芸界に広まったアジサイや『日本植物誌』、ライデンのシーボルトハウス というイメージなのだが。

 


シーボルトはオランダ領東インド総督に日本研究の希望を述べ認められ、 オランダ人と偽って日本に入国し、出島で西洋医学(蘭学)教育を行ったという。 長崎の出島といったら、オランダー蘭学。「エンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルグとの3人を「出島三学者」などと呼ぶことがあるが、全員オランダ人ではなかった」

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト - Wikipedia

 

 読むべき本はこれかな!!!??
ま、テキスト再読と放送の祭司長

再視聴で忙しいと思うけど‥

タイトル 植物学とオランダ 
サブタイトル  
著者 大場秀章著 
ページ数 272頁 
判型 四六判・上製 
定価 2,160円(本体2,000円) 
内容 生誕300年を迎えたリンネのオランダ留学事情、その支援者たちとの交流、庇護者クリフォートとその豪邸の今、ヨーロッパの庭園改革を夢みたシーボルトの足跡、幕末の日本人留学生たちをしのぶ風物、アジサイをはじめオランダの風景となった日本の植物の数々などなど、植物学者の目がとらえたオランダの歴史と現在、その魅力を語り尽くす。 
目次 ◆ライデン点描
ライデン市の歩み/ライデン市民の誇り/コーンマーケット/ニシンの日
◆オランダとリンネ
リンネのオランダ滞在/ヘルダーラント大学/ヘルダーラント大学の足跡を訪ねる/リンネの学位取得/学位取得後のリンネ/リンネが学位取得を急いだ事情/クリフォート邸でのリンネ/クリフォート邸を訪ねる/ライデンとリンネ
シーボルトとアジサイ
ライデンとシーボルト/シーボルトと気候馴化植物園/シーボルトのアジサイとヨーロッパのアジサイ
◆ライデン大学植物園
植物園散策/クルシウスの薬草園
◆ライデンの日本
植物園を訪ねた福沢諭吉/ホフマン教授/ラッペンブルク一二番/津田と西を思う/いまはなきホテル・ドゥ・ゾン/商船学校
◆折々の植物
シナノキとシナノキにまつわる話/シナノキに由来する言葉/ナラ/シダレヤナギ/イソマツとハママツナ
◆アメラント島訪問
不思議な南北差/島で出会った植物/ハマナス
◆ダイクと東インド会社─ホラントを訪ねる
ダイクをみる/ホールン/タラと釣針
◆フリースラントへ
大堤防を渡る/フリースラント/薄暮を歩く
◆ワーヘニンヘンからナイメーヘン
ベルモンテ植物園/林地園芸/ライン川を渡る/ナイメーヘンを歩く
◆オランダの外国マーストリヒト
要塞に想う/自然史博物館/ライン川の砂山
◆ハーバリウムにて
王立植物標本館/ファン = ロイエン・コレクション/アラビドプシスのタイプ標本/ホルター・コレクション/パラフェルナリア
◆音楽を想う
音楽の起源は騒音
◆ブルゴーニュの残照
湧き出たオランダの歴史への興味/はかなきものの美しさ 
植物学とオランダ

植物学とオランダ

 
環境制御のための植物生理: オランダ最新研究

環境制御のための植物生理: オランダ最新研究

  • 作者: エペフゥーヴェリンク,タイスキールケルス,Ep Heuvelink,Tijs Kierkels,中野明正,池田英男
  • 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
  • 発売日: 2017/03/21
  • メディア: 単行本
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チューリップ・ブック―イスラームからオランダへ、人々を魅了した花の文化史

チューリップ・ブック―イスラームからオランダへ、人々を魅了した花の文化史

  • 作者: 国重正昭,ウィルフリッドブラント,ヤマンラール水野美奈子,小林頼子,Wilfrid Blunt,南日育子,中島恵
  • 出版社/メーカー: 八坂書房
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大場秀章氏の本は古書を購入(ご著書で購入は何冊目になるかな?)

上の本と下の本は図書にあり・・
テーマからずれている?????

 

いや、どうなんでしょう

この後も歴史と文化は勉強していきたい・・・と改めて思うのであった

 

 

物語 オランダの歴史 - 大航海時代から「寛容」国家の現代まで (中公新書)

物語 オランダの歴史 - 大航海時代から「寛容」国家の現代まで (中公新書)

 

 

 

地中海世界の歴史―古代から近世 (放送大学教材)

地中海世界の歴史―古代から近世 (放送大学教材)

 

 

 

古代地中海世界の歴史 (ちくま学芸文庫)

古代地中海世界の歴史 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

ヨーロッパの歴史と文化-中世から近代

ヨーロッパの歴史と文化-中世から近代

 

 

 

地域文化研究3 改訂版

地域文化研究3 改訂版

 

 やっぱり教材の方を買うべきでしょうね‥

 

真面目に課題を続けると

オランダ(ネーデルラント)は、

16世紀のヨーロッパにおける園芸、博物学の中心あった。
その背景は、ヨーロッパ中に広がるハプスブルク家の支配下になったことで、イタリア・スペインをしり目に海外貿易で発展を遂げ、また。ハプスブルクの君主の人文主義的な態度は、広範囲にわたる博物学や古事物研究のネットワークを成立させた。

1602年設立の東インド会社も、エキゾチカ(ヨーロッパでは見られない植物を含む異国風の物産)をもたらし、富を蓄積し、

盛んな出版業が、「植物学の父たち」を後押しした。

マティアス・デ・ロベル(Mathias de l’Obel、1538 -1616 (学名:Lobelia)に献名

レンベルト・ドドエンス(Rembert Dodoens、15171585 はドドナエア

カロルス・クルシウス(Carolus Clusius、15261609 は多くの植物の学名(属名)に

チューリップほか

【学名】学名のルール | @Tillandsia

「教育学」(教育哲学)

教育学の先人

 

貝原益軒

貝原益軒は黒田藩に仕え藩校等で朱子学を講じていた

陽明学者ではありませんでしたが,晩年の『大疑禄』では,官学としての朱子学への疑念と気一元論が展開されている

日本で最初の「教育書」とも称される『和俗童子訓』は,武士の子弟のみならず,庶民や女子の教育に関しても,多くのことが論じられ、
「随年教法」は,年齢(つまり発達段階)に応じた教育という発想が希薄だった当時にあって,近代的な一斉授業にも通じる年齢主義の元になった考え方である

 

エミール・デュルケム(1858-1917 仏)

デュルケムが生きた第三共和制の時代は,フランスが精神的にもキリスト教的教義から解放された時代
社会にはその構成員としての行為する人々だけではなく,その行動を統制して秩序を形成する「社会そのもの」が存在することも主張(社会実在論)//
教育とはその「社会そのもの」を子どもたちの内面に作り上げること
教育は相対的な社会的営みであり,いつの時代,どんな社会にも共通する普遍的教育などはないと指摘

人の精神には二面性があり,教育はそのうちの社会的な部分に働きかける営みであることは,デュルケムが道徳教育論で最も強く主張した論点

 

清水義弘(1917- 2007)

nekoatama.hatenadiary.jp

 

ルドルフ・シュタイナー (1861-1925 独)

ルドルフ・シュタイナー - Wikipedia

人智学(アントロポゾフィー)

 

シュタイナーは,人間が七年周期で発達していくこと,その最初の七年間で肉体を,次の七年間でエーテル体(活力体,生気体)を,そして,21歳までの七年間でアストラル体(情緒体,感情体)を完成させる。

シュタイナー教育は,子どもの内的発達に合わせた内発的な教育のレディネスを非常に重視しており,その意味で注入主義や主知主義とは相容れない,新教育運動の一環

 

マリア・モンテッソーリ

 

マリア・モンテッソーリ - Wikipedia

(1870 - 1952伊)

先駆的女性

 

イタリア初の女性医師であったモンテッソーリは,知的障害児を担当する中で,彼らの教育可能性に気づき,それに適した教育法の開発に注力し、感覚教育法を施し知的水準を上げるという効果を見せ

モンテッソーリ教育は,「はだし保育」や「はだか保育」と結びつけられることも多いが,それらは方法的な一部分。アメリカにおいては,数次にわたりブームとなりましたが,幼児教育の主流とはなりませんでした。

 

 

フィリップ・アリエス

フィリップ・アリエス - Wikipedia

( 1914 - 1984 仏)
『〈子供〉の誕生ーアンシャン・レジーム期の子供と家族生活』(1960年)

当たり前のもにとして受け入れていた現代の子供緩教育観を歴史的にもう一度見直してみる契機となった

 

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 

 

「心理学」

心理学は18世紀末に誕生した

 

「心理学の先人」

 

アリストテレス(BC384-322)(希臘)

 

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C・ダーウィン(1809-1882英)

ダーウィンの影響 S.ホール (米)

W. ジェームズ(米)・・機能主義心理学(人間の意識の働きは、環境にうまく適応するため生まれたものである)

 

 

W.ヴント(1832-1920)

現代心理学の出発点

イギリス経験論哲学、アリストテレスの影響

意識とは人間の経験を通して作られる、心的複合体

 

ヴントと同時代にオーストラリアで精神分析学がフロイトによって誕生した

 

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F.バートレット(1886-1969英)

記憶について・・人は自分が保持している情報を、自分自身の見解、期待

さらは価値観などに合致させて、無意識のうちに修正したり簡略化させたり、歪めたりしてしまうものである

 

 

J.ピアジェ(1896-1980仏)

人は乳児の時期から受動的な存在ではなく外界の情報を積極的に取り入れ商とする能動的な生き物

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H.ハーロウ(1905-1981米)

サルの研究・・すべての生き物は、他社との暖かいやり取りを強く求めるもの

 

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土居健郎(1920-2009)

 

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「発達」

成熟 maturation

学習 grouth

 

発達(debropment)とは成熟を一方の生物学的要因とし、他方で後天的な社会的学習を通じて、それらの総合作用によって各党くされる心身の諸機能、とりわけ精神的側面での質的変化である」

発達 - Wikipedia

 

社会的認知の発達科学 (発達科学ハンドブック 第 9巻)

社会的認知の発達科学 (発達科学ハンドブック 第 9巻)

 
発達科学の先人たち (放送大学教材)

発達科学の先人たち (放送大学教材)