興味シンシン

興味津津または深深なnekoatama’s blog

「中華」

昨日は、2000年刊のNHKスペシャル四大文明プロジェクトの
「中国」を読んでいたのだが、
「文明」という言葉の意味の転換、
「文明」の古典的意味は、社会秩序の安定や個人の徳をほめる言葉であったのだと。
中国の伝統的言葉では、「シビライゼーション」(Civilization) とは 魏・晋時代以降の使われた「中華」という言葉のさすもので、それは古くは「中国」ということばであったと・・
日本において、明治時代の「文明開化」の意味は、ヨーロッパ化と鉄道を指した、と。

ローマの「インペリアル」を「帝国」と訳すのは、「文明」同様中国の言葉ではなく、皇帝の統治するのは「天下」であって、限られた国境のあるくにでない。

「自然」という言葉の意味もまた違う・・・等々であったが、
都市国家から領域国家になる間の550年が春秋戦国時代であるという~~

始皇帝の地上の歴史は15年でも、彼の地下世界は2200年続いている、とあった:のが印象的かな?・・

 

 

「中華」という言葉に反応したが、

本日発売

「中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史」 (講談社選書メチエ) 

2023/5/15 松下 憲一 (著)だそう・・

 

中国の歴史は、統一王朝時代と分裂時代の繰り返しである。そして、漢族と北方遊牧民との対立と融合の歴史でもある。なかでも、秦漢帝国が滅亡した後の「魏晋南北朝時代」は、それまでの「中華」が崩壊し、「新たな中華」へと拡大・再編された大分裂時代だった。この「中国史の分水嶺」で主役を演じたのが、本書の主人公、拓跋部である。
拓跋部は、モンゴル高原の騎馬遊牧集団・鮮卑に属する一部族だった。3世紀、部族国家を築いて歴史に登場し、386年には拓跋珪が北魏王朝を開いて、五胡十六国の混乱を治めた
北魏では、皇太子の母が死を賜る「子貴母死」や、亡き父の妃を息子が娶るレビレート婚など、遊牧社会の伝統を残しつつ、雲崗・龍門の石窟寺院で知られる仏教文化や、名君・孝文帝の漢化政策により文化の融合が進み、「新たな中華」が形成された。北魏の首都・洛陽の平面プランは、唐の都・長安に受け継がれ、さらに奈良・平城京へともたらされるのである。
北魏は6世紀に東西に分裂するが、その後、中国を統一した隋王朝、さらに大唐帝国の支配層でも拓跋部の人々は活躍し、「誇るべき家柄」となっていた。「夷狄」「胡族」と呼ばれた北方遊牧民の子孫たちは中国社会に溶け込みつつも彼らの伝統を持ち込み、「中華文明」を担っていったのである。

目次
はじめに――分裂と夷狄・胡族の中国史
第一章 拓跋部の故郷――遊牧と伝説
第二章 部族を集めろ――「代国」の時代
第三章 部族を再編せよ――北魏の成立
第四章 中華の半分を手に――胡漢二重体制
第五章 中華の中心へ――孝文帝の「漢化」
第六章 胡漢融合への模索――繁栄と分裂
第七章 誕生! 新たな中華――隋唐帝国の拓跋
おわりに――なぜ中華文明は滅びないのか
あとがき
参考文献
索引