赤瀬川源平(1937 - 2014)の『ルーヴル美術館の楽しみ方 (とんぼの本)』
古い本なのだが、またみていた
(ちなみに「ルーブル美術館』と書いたらいかん、遺憾であるらしい)
赤瀬川さんは十日間ルーヴルに通うという計画で、じっくり見ているのだが、
(27年前の1991年のことである)
この本の第7章はなんと丸々9ページがマンテーニャのあの絵の話であった。
最後の「マンテーニャの発見」だそう。
あの絵というのは「美徳の園から悪徳を追い払うミネルヴァ」(1452~1502)
160センチ×192センチの「地味な大きさで、あまり人が立ち止まらないからゆっくり眺められる」という(@グランドギャラリー)
ちなみに私の、今回の旅のテーマの一つはこれなのである
「神話のテーマを借りて、それにまつわる妙な細部をひたすら楽しんで描いている」(p87)
「自分の中でルネッサンスのメッキが剥げてきたのを感じる」
「マンテーニャの絵の重心は中世にある。ルネッサンス以前の興味によって描かれている。
その証拠が画面の隅々まで、まんべんなく、テーマを塗りつぶしていくように描かれた細密描写である。細密だけでなく、博物的な描写である。ファン・アイクもそうだし、ホルバインもそうだし、クエンティン・マセイスもそうだし、ボッシュやブリューゲルもまたそうである。画家たちはすべてを観察してそれを均等に描き出し、人々はそれを見てそれぞれが発見していく。」
「ルーブルに来てあらためて感じたことは、ルネッサンスの絵からは細部が消えていくことだった。絵の中の博物的細部が消えていって、中心のテーマだけが描写される。
頭では、ルネッサンス=すばらしい、と思いながら、見ていてどうもホンネのところでは面白くないのは、そこだったのだ。ルネッサンスを境に、どうも絵が教訓的になってくるのである。絵の中の面白みのすべてが一つのテーマへの経済性に支配されて、「無駄な」細部が整理される。」
「結局は、自然の細部に代わっ人工の、人間の意思だけが強くみなぎることになったのである。ルネッサンスというのは人間復興というより人間独裁の始まりではなかったのか」
「もちろん今でもレオナルド・ダ・ヴィンチの絵は好きだ。ミケランジェロのデッサンも好きだ。それぞれの個人の才能、資質は好きだけれど、ルネッサンスという風潮が、つまるところ自然に対する優位、人間の力の三美、人口の血からお崇拝である、そんな人間独裁の体制の力が、結局は天まで伸びて地球の成層圏にオゾンホールを開けたのである。」(p89)
引用が長くなってしまったが・・最後の部分はともかくともかく・・「絵の中の博物的細部」を見てこようと思うのであった・・
逆瀬川源平さんが77歳で亡くなってもうじき4年・・人生は短く芸術は長い・・
~~後記~~~~~