興味シンシン

興味津津または深深なnekoatama’s blog

読書について

「ショウペンハウアーは、創造性のためには読書をしないことを説いている」 !!?? ふ~~ん~~ それって逆説? 『知的創造サイクルの法システム』P66なのだ(放送大学大学院 情報学プログラム 児玉晴男先生) 出典は Arther Schopenhauer、Pererga und Paralipomena(Kleine Philosophische Schriften,1851) 斎藤忍随訳 『著作と文体』(岩波書店1960) 『読書について』 細谷貞雄訳『知性について』
・・・ということだが
読書について (光文社古典新訳文庫)読書について (光文社古典新訳文庫)
(2013/05/14)
アルトゥール ショーペンハウアー

商品詳細を見る
Arthur Schopenhauer、1788- 1860
読書について 他二篇 (岩波文庫)読書について 他二篇 (岩波文庫)
(1983/07)
ショウペンハウエル

商品詳細を見る
!!??

「風刺が、代数のように、抽象的な不定の価値の操作にあてるべきものであり、具体的な価値、あるいは定量の操作にあてるべきものではない」 Arther Schopenhauer、Pererga und Paralipomena(Kleine Philosophische Schriften,1851) 斎藤忍随訳 『著作と文体』(岩波書店1960) p40 ・・といわれるのとは違いがある。 それはロマン派がパロディ形式を寄生的なものとしたのは、おそらく文学を個人の所有し売る商品にかえてしまった資本主義倫理の発展を反映していることからいえる。

このあたり・・意味を捉えるのに苦労している・・・ いや、美学・芸術学研究の方にも関係していますが・・ パロディの歴史的先祖は古典やルネサンスにあった模倣という習慣であるが、パロディは、模倣よりももとのテクストや約束事との差異や距離をより強調するコード化であり、自己言及の技巧の一つである。 Linda Huchon (辻麻子訳『パロディの理論』(未来社1993年) 「パロディは、わが国で見られる風刺や文字理とは異なり、芸術として認知されるものである。」 「パロディは、他人の著作物の中で表現されている思想(アイディア)自体を他人の表現から抽出し、それを自分の著作物に取り入れ自分の言葉で表現する限り、著作権侵害には当たらない。」(p66)
パロディの理論パロディの理論
(1993/03)
リンダ ハッチオン

商品詳細を見る
Wikipedia:パロディ パロディ(parody)は、現代の慣用においては他の芸術作品を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、あるいはその手法のことを指す。

文芸批評家のリンダ・ハッチオンは、「パロディとは先行作品に対する批評的な相違を伴った模倣であり、常にパロディ化されたテキストという犠牲を払うものではない」と述べている。別の批評家サイモン・デンティスは、パロディを「他の文化的生産物や活動に対する、相対的な反論の引喩となる模倣作品を生産する、あらゆる文化的活動」として定義している。

パロディが原著作物の二次的著作物になると判断されず、日本では裁判沙汰になるケースも存在する。これは日本における「パロディ・オマージュ・モチーフ」と「盗作・盗用」の違いによる認識が乏しいことも関係していると思われる。

フランスでは、著作権法第122条の5(4)項にて、パロディは著作権侵害でないと明文規定されている(パロディ条項)。

http://kakugen.aikotoba.jp/Schopenhauer.htm

・読書は他人にものを考えてもらうことである。 本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。 ・紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者のたどった道は見える。 だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。 ―「読書について」―

http://d.hatena.ne.jp/cjjk-book/20081025/1225536316

怒りを欠く者は知性を欠く。知性は必ずある種「鋭さ」を生む。鋭き感覚は生活においても、芸術、文学においても、ひそかな非難と侮蔑を呼び起こすいくたの事柄に日々に必ず出会う。この感情こそ、愚かな模倣を制止するものである。 (§18b、pp. 124-125)